同日
20時00分
東京都文京区大塚
宮丘一比虎 自宅マンション
宮丘の家へは、いったん警視庁に戻って車を返却してから向かう。最寄駅の新大塚へは、霞が関から丸の内線一本だ。予定通り20時に到着した我妻を出迎えた宮丘は、職場とはまるで違う穏やかな表情をしていた。よき夫、よき父親の顔だった。
「よかったなあ、カナ。タイガおにいちゃんが来てくれたぞ」
少し前なら無邪気に飛びついてきたはずのカナは、成長して少女らしい含羞を身につけたらしい。はじめ宮丘の後ろに隠れてもじもじとしていたが、我妻が身を屈めて目線の高さを合わせてやると、ようやく以前と同じように打ち解けた態度になる。
近ごろ習い始めたというピアノでハッピーバースデートゥーユーを演奏し、色とりどりのマスキングテープやシールでデコレートしたカードをくれた。
「ケーキはママが作ったけど、アイシングで字を書いたのはカナだよ」
おたんじょうびおめでとうタイガおにいさん。
「この子ったら何度もやり直して、アイシング二袋使い切っちゃったんです」
ふくよかでやさしげな顔立ちをした宮丘の妻が、横から口を添える。
「だってー、いちばんよくできたの見てもらいたかったんだもん」
「カナちゃんは、タイガおにいちゃんが大好きだものね?」
「うん。えへへ」
すべてが、素直にうれしかった。誕生日とはこんなにも特別なものなのか、とも思った。
もの心ついたころには両親は不仲となっていたために、まともに誕生日を祝ってもらった記憶がない。祖父母に引き取られてからは、我妻自身が思春期に差し掛かっていたこともあり、誕生日にさしたる意味を感じなくなっていた。
――そうか、こういうことなんだ。
好きな人が、この世に生まれてきた奇跡を祝う。それは幸せなことなのだ。祝われる人だけではなく、祝う人をも幸せにする、年に一度だけの日。
――そうか、だから晟尋さんは……。
出掛けに感じたわだかまりの正体が徐々に見えてくる。喉に付けられた吸い痕の意味も、其扇の不可解な態度の理由も。
――馬鹿だ、俺は。なにも分かってなかった。
喉のしるしが、シャツの下で熱を孕んだように感じる。
――ここを出たら、晟尋さんに会いに行かないと。
明日では駄目だ。今日でなければいけない。カナがどうしても今日だと宮丘にねだって譲らなかったように。
「さあ、カナちゃん。そろそろ寝る時間だから歯を磨いて」
「えー、あとちょっと。ちょっとだけ。いいでしょ、ママ」
「いつも9時半なのを、今日だけ特別に10時にしたでしょ。もうおしまい、ね? タイガおにいちゃんにおやすみなさいして」
「はぁい……おやすみなさい、タイガおにいちゃん」
「おやすみ。今日はありがとう、カナちゃん。うれしかったよ」
母親とともに寝室へ去っていくカナを見送った我妻は、ひと呼吸おいてから立ち上がった。
「帰ります。遅くまでお邪魔しました」
「まあ待て。そこらまで一緒に歩こうじゃないか」
「……? はい」
駅までは10分ほどだし、迷うような道でも危険な地域でもない。訝しく思ったが、拒むほどのことではなかったので、宮丘と肩を並べて夜の住宅街を歩いた。
「ありがとうよ。おかげでカナは大満足だ」
「自分こそ、ありがたかったです」
本当に、ありがたかった。祝ってもらったことも、祝われる価値があると自覚させてもらえたことも。我妻がなにを間違えていたか気付けたことも。
「ところで我妻。ずっと気になってたんだが、おまえ、ずいぶん色っぽいもの付けてるじゃないか」
ここに、と宮丘が喉を指す。シャツのボタンを上まで嵌めたままでいたが、なにかの拍子に見えてしまっていたのだろう。
「色が濃いよな。付けられたばっかりか」
「はい」
「……其扇大臣だろ?」
「はい」
「そうかなと思っちゃいたが……やっぱりそうなんだな、おまえら」
其扇との関係を隠そうとした覚えはない。改まって訊かれたことがなかったにすぎない。
「悪かったな。うち来るのに揉めたんだろ?」
我妻は黙って首を振る。
揉めはしなかった。ただ、我妻が其扇の屈託に対して鈍感だっただけだ。
――でも、いまなら分かる。
好きな人の誕生日を知りもせず、知らされもしなかったことの悔しさ。好きな人が誕生日の価値に無自覚なことの切なさ。好きな人に「生まれてきてくれてありがとう」と伝えるのが自分でないことの淋しさ。
其扇は、それらの屈託を完璧な笑顔の下に押し隠し、紅い印を我妻の喉へ刻むように残した。
「訳ありのキスマークだと思ったから、あの人に電話をかけてみたんだがな」
「……え?」
「あんたもうちへ来たらどうですって誘ったんだが、断わられた。さすがに遠慮しますってよ」
「その電話、いつのことですか」
「おまえがうちに来てしばらく経ってからだから、8時半ころか。で、こっちがだいたい10時には終わるって伝えたら、近くまで迎えに行く、とさ」
8時半。そういえばそのころ、宮丘は、煙草を吸ってくるとベランダに出ていた。あのとき、其扇に電話をかけたのか。
「要するに俺は、おまえを引き渡すために出てきたんだ。ほら、あそこ」
宮丘の視線の先を辿ると、ひと気のない公園があった。公園の片隅には小さな鳥居が立っており、その下に人影がひとつ。
其扇だった。
前髪をおろし、パーカーに七分丈パンツという格好だ。
「ああしてると、とても政治家にゃ見えねえな。下手すりゃおまえより若く見える」
其扇も我妻と宮丘に気付いたらしい。顔をこちらへ向けているが、街灯の光が弱すぎて、どんな表情をしているのか判然としない。確かめたくて、我妻は駆けだす。「ケンカすんなよ」という宮丘の声を背中で聞いたが、振り向かない。
「晟尋さん」
間近に見る其扇は、決まり悪げな顔をしていた。
「すみませんでした」
「ごめん」
同時に詫び、また同時に「なにが?」と訊き返す。
「どうぞ、晟尋さんから」
「あー……その、俺、感じ悪かったろ。今日がタイガの誕生日だったって聞いて、なにそれ知らないって思っちゃったんだ。おまけに幼女にやきもち焼いて、そのくせかっこつけて『行け』なんて言ってさ。かっこつけも半端で、これ見よがしにキスマークつけたりして、ほんと、なにやってんだって感じ」
照れ隠しなのだろうか、其扇はひどく早口だ。
が、其扇の口から出た「やきもち」という言葉に、我妻は震えるほどの喜びを覚える。聞き間違いではない。たしかに其扇は、そう言った。
「でもやっぱり、そのままにしたくなくてさ。ぐるぐる考えてたところに宮丘さんから電話貰って、思い切って迎えに来た。俺も今日中に誕生日おめでとうって伝えたくて……だから、えっと、いろいろごめん」
言い終えて、其扇は顔を伏せた。こめかみから耳にかけてうっすら紅潮している。消え入りそうな声で「……で、タイガは?」と促してくる。
なにから詫びるべきだろう。どう話したらいいだろう。多幸感でのぼせる頭は、まともに動いてくれない。我妻は一足も二足も飛ばして答えた。
「ちゃんと晟尋さんに好かれてるって分かりました。だから……」
「だから?」
「すみませんじゃなくて、ありがとうございます」
「なんだよ、それ」
呆れたように其扇が笑う。出掛けに見た完璧な笑みよりもずっと好きだ、と我妻は思う。
「けどまあ、俺にも責任はあるよな。俺、タイガが眠ってたり気持ちよくてわけ分からなくなってるときしか好きって言ってなかったかも」
其扇は不意に笑みを消し、静かな瞳で我妻を見詰める。それから少し背伸びをして我妻の耳元へ唇を寄せてくる。ほとんど吐息だけの声で囁く。
「……好きだ。愛してる、タイガ」
もう、なにも。
なにも、なにもかも言葉にならない。このうれしさ、この想い、どうやっても言葉にできない。名を呼び続けることしかできない。
「生まれてきてくれてありがとう。俺と出会ってくれてありがとうな」
「晟尋さん……!」
我妻は、其扇に「許されている」のではなかった。愛されているのだった。幸せに溺れてしまいそうで、我妻は、縋り付くように其扇を抱きしめた。
「なあ、タイガ。俺、おまえにいろいろしてやりたい。いますぐに」
「はい」
いますぐ、ふたりきりになれるところへ。