2021年6月30日
20時00分
東京都港区
芝浦警察寮
まだ夏本番には間があるというのに、今日の最高気温は30℃を超え、今年初めての猛暑日となった。
いつも通り彼を議員宿舎まで送り届けた我妻は、今日は直帰する旨、所属部署である公安へ電話で申し伝えて芝浦警察寮に帰宅した。自室に入るなり喪服のようなスーツを脱ぎ捨てて、バスルームへ向かう。暑さ寒さには耐性のあるほうだと自負してはいるものの、SPという仕事柄、上着を脱ぐことができず――下にガンホルスターを仕込んでいるから――ネクタイを緩めることさえできないのは、なかなかにこたえる。一日の汗を熱いシャワーで洗い流した我妻は、腰にタオルを巻いただけの姿で缶ビールのプルトップを開け、喉を鳴らして飲み干した。
「……はぁ……」
旨い。
渇いていた身体が、すみずみまで潤っていく。
ひと心地ついた我妻は、ふと、缶によって冷やされた唇を指先でなぞってみる。
――さっき、あの人が触れてくれた場所。
ほんの数十分前、一礼して辞していこうとする我妻の顔を引き寄せ、掠めるようなキスをしてくれた。不意をつかれてまごつく我妻へ「また明日な、タイガ」といたずらっぽい笑みを浮かべて言ったのだ、あの人は。
一瞬だけ重なった唇の感触を、もっと惜しんでおけばよかった。其扇から与えられるものならば、どんな軽いキスでもわずかな目配せでも、我妻の心身に甘い余韻を残す。彼と身体を重ねるようになって一年ほど経ついまも、そんな些細なあれこれは、我妻の中で、よろこびとして蓄えられていく。今日も報いてもらえたと、幸福な気持ちで眠りにつける。
――なのに、風呂で洗ってしまった。ビールを飲んでしまった。
むろん入浴はせねばならないし歯も磨かねばならないのだが、それでも、もう少しだけ名残を楽しんでいたかった。
「晟尋さん……」
代わりに、名を口にしてみる。すると、胸が満ちていく。
彼のそばで生きること、彼に触れることを許されている。彼から与えられるもの、命令であったり快楽であったり、ときには試し行為であったり、それらによって自分は生かされているのだと思う。もうそれらなしには生きていけないだろう、とも。
アルコールによる酩酊も手伝って夢見心地の我妻は、そのとき、マナーモードのままのスマホが鳴動するかすかな音を聞いてはっとなった。
どこだ。スマホはどこにある。
らしくなく慌てたのは、いま面影を反芻していた人物からのコールではないかと直感したためだ。が、直感は外れた。液晶画面には、直属上司の名前が表示されている。
「はい」
『よう、我妻』
公安警察官は公務中の架電において、必要が生じない限り名乗らないし、相手に名前で呼びかけることはない。しかし宮丘が親しく我妻、と口にしたので、幾分か緊張感が解けた。
『おまえ、直帰したんだってな』
「はい。なにかありましたか」
『うん、まあ……ちょっと聞くが、おまえ、いま忙しいか?』
「は?」
『いや、いまというか、具体的には明日なんだが。夜でいい。仕事が終わったら俺のうちに来られないか?』
宮丘はひとり娘の小学校入学を見据えてか、二年ほどまえ官舎を出て、文京区にファミリータイプマンションを購入した。我妻も数回訪れたことがある。
「今週の其扇大臣は、答弁案件も審議法案も抱えていないようです。明日のスケジュールも19時前にはすべて終わるはずですので……」
『そうか。じゃあ20時くらいなら来られそうだな』
「大丈夫だと思いますが、なぜ急に? 明日でないとならないんですか?」
『すまんが、明日マストだ。カナがな、ケーキ作ったりカード書いたりで盛り上がっちまってる』
カナとは、この春に小学二年生になったはずの宮丘の娘だ。それは分かるが、話が読めない。戸惑って黙り込んでいると、呆れたような口調で宮丘が言った。
『明日はおまえの誕生日だろうが』
7月1日。そういえばそうだ。
以前、宮丘の自宅でカナの相手をしたとき、星占いをしてあげると言われて誕生日を教えたような覚えがある。
タイガおにいちゃん、かに座なのね。カナは、おとめ座。あいしょうはとってもいいみたい。
『去年もおまえの誕生日祝いをやりたがったんだが、IAFやらテロ事件やらでドタバタしてたんで、来年まで我慢なって誤魔化しちまった。いまさら諦めろとはとても言えん』
いいかげんな口約束を宮丘は忘れていたが、カナは忘れていなかったというわけだ。
『俺を嘘つきお父さんにしないでくれ。頼む、我妻』