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 2021年7月1日
 19時10分
 東京都港区赤坂 議員宿舎
 其扇晟尋 自室

「今日もお疲れさま、タイガ。明日もよろしく頼むな」
「はい。いつも通り、朝8時にお迎えに上がります」

 其扇を送り届けた我妻は、玄関でいとまを告げて踵を返す。ドアノブに手をかけたとき、ゆっくり、しかし力強く後ろへ引き戻された。ゆうべと同じやり方だが、違うのは、掠めるだけのキスではなく、はじめから息を奪うような深いキスだったことだ。其扇の舌先は我妻の舌の上を這い、上顎をくすぐり、それから自らの口中へ導いて吸う。やがてふたりぶん溶け合った唾液がしたたり落ちるのを追うように、其扇の唇は我妻の首筋を伝い下り、喉仏を咬む。其扇の指先が、我妻のネクタイを緩める。小さな絹鳴り。ワイシャツのボタンを外す音、ひとつ、ふたつ。

「ん……ん――……」
「……タイガ……――なあ……」

 誘われているのだと分かった。というより、其扇の中へ入ることを許されている。吐息さえも甘く湿らせて肌へ纏わりつかせてくる手管に、我妻はたやすく陥落しそうになる。
 だが、今夜は駄目なのだ。

「申し訳ありません、晟尋さん。このあと別の約束があるんです」
「え?」

 我妻の首筋に歯をたてたまま、其扇の動きが止まった。短く問い返した声に、もうさっきまでの熱っぽさはない。

「宮丘の自宅へ行くことになっています。娘さんが誕生日祝いをしてくれるので」
「誕生日? ……って、宮丘さんのお嬢さんの?」
「いえ、自分のです。今日が誕生日なので」

 長い沈黙があった。
 不興を買ってしまったかと思ったが、首筋に顔を埋めたままの其扇がどんな顔をしているか、我妻にはまるで見えない。喉に触れた其扇の唇からはいっこうに言葉が発せられず、我妻は常になく、まったくらしくなく不安になって弁解を試みる。

「娘さんはカナちゃんといって、まだ小学二年生の……、あ」

 喉仏の下に湿った感触を受けて、息を呑む。思わず身じろいだ両肩を其扇が身体ごと押さえつけ、我妻の動きは封じられる。其扇がなにをしているかは明らかだった。我妻の肌に吸い痕をつけているのだ。シャツの襟でぎりぎり隠れるほどの位置に、花びらのように紅く濃く。

  「行っておいで、タイガ」

 数十秒、もしかしたら1分か、もっと。長い時間をかけ、あからさまな所有のしるしを付けたはずの其扇は、しかし、なにごともなかったような顔で微笑んでいる。完璧な笑みだった。政治家・其扇晟尋として公に立つときの――つまりは、心の内を一切うかがわせない完璧さなのだった。
 なんのための吸い痕だ?
 其扇はなにを考えている?
 我妻はなにかを間違えたのか?

「晟尋さん……」
「ほら、早く。小さな女の子を遅くまで待たせちゃ可哀相だろう?」

 戸惑い、混乱し、躊躇って立ち尽くす我妻へ、其扇は美しい顔のまま言った。「行きなさい」と。
 命令ならば、従うのみだ。我妻は、得体の知れないわだかまりを胸に抱えて其扇の部屋をあとにした。

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