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 同日
 12時20分
 大阪市港区海岸通

 海遊館とは、大阪港埋立地にある水族館だ。
 オープンした1990年当時は世界最大級の呼び声も高く、以来、関西圏の観光名所であり続けている。
 タクシーを降りてエントランス広場を横切り、ふたりぶんのチケットを買い求めた其扇は、行くぞ、と蓼丸を促して入場ゲートをくぐる。大荷物をコインロッカーに放り込んでしまったあたりで、蓼丸は、どうやら視察でも打ち合わせでもなく、其扇が本気で水族館を見に来たのだと察した。

「こっち、だな」
「はい」

 暗黙のうちの了解事項のように、同じ場所を目指した。平日のせいか人もまばらな、互いの顔さえよく見えないほど薄暗い通路は、進むほどに非現実感を増す。やがて行く先に、藍色に揺らめく「海」が現れた。5400トンの海水をたたえた巨大水槽だ。吸い込まれそうな、押し潰されそうな、圧倒的な量の水の中にジンベエザメやシュモクザメ、イトマキエイなどが悠然と泳いでいる。

「――……」
「――……」

 ふたりはいっとき、言葉もなく青い水塊の前にたたずむ。
 アクリルガラスによって切り取られた海だとわかっていても、途方もない神秘に心打たれる。その神秘によって、蓼丸の記憶は過去へ――其扇と初めてこの水槽を見た日へ巻き戻されていく。

――高校2年の、夏だった。

 蓼丸は、其扇と連れ立って夏期講習会場へと向かう道すがら、ジンベエザメ見たいなあ、と呟いたのだったと思う。とにかく大きい魚が見たい、と。
 当時の蓼丸は、親や周囲から期待される「将来」に漠然とした違和感を持っていたのかもしれないし、日ごと膨れ上がっていく其扇への「友情」ではない「なにか」を持て余していたのかもしれない。逃避願望めいた呟きは無意識のうちに口からこぼれ、また、そのことに蓼丸自身驚いてもいた。
 なんてな、そのうちにな、と誤魔化そうとした蓼丸の顔を其扇はしばらく見詰めたあと、じゃあ行こか、と微笑んだ。お金はなくても時間はあると其扇は言い、京都駅から、新幹線ではなくJR快速に飛び乗った。当時まだ大阪メトロになっていなかった地下鉄に乗り換え、辿り着いたこの水槽を、やはりふたりは黙り込んだまま見上げたのだった。

 いまと同じように。
 其扇の吐息と気配を、すぐ横に感じながら。

――あのとき俺は、この場所で、自分の気持ちを思い知ったんだ。

 ふだんは認めたくなくて心に蓋をしながら、夜になれば自慰をしながら其扇の顔を思い浮かべていた。抱きしめたい、誰にも渡したくないと思っていた。逃れようもなく、恋だった。
 羽ばたくように泳ぐイトマキエイの堂々たる姿に引き比べ、自分の卑しさに打ちのめされた。この想いを悟られてはいけない、友達のままでいい、嫌われたくない。だから、自覚したばかりの恋の種を胸の奥へ埋め戻した。
 高校2年生の蓼丸は、其扇の隣にいてさえ孤独だった。
 ほんの少し手を伸ばせば、其扇の指に指を絡めることもできたというのに。

――いったん離れなきゃ、と思ったんだ。

 このままでは、其扇への想いを制御できなくなってしまう。一度遠くへ離れなくては。そうして、誰より強く有能な男になって其扇の前に戻ってくる。たとえ恋が芽吹かなくとも、其扇にとって価値ある存在になれるなら、と。
 その結果、選んだ進路はアメリカへの留学だった。

――なんて回り道をしたんだろうな。

 13年前と同じ場所で、同じ気持ちを抱えている。其扇が好きだ、と。そのくせ自分の立ち位置がわからなくてうろうろ迷っているところも同じだ。

――進歩なさすぎだろ、俺。

 ジンベエザメが身を翻した拍子に反射した青い光が目を掠めたので、しかめ面で自嘲の笑みをごまかすことができる。はずだった。
 其扇の指が蓼丸の指に絡みつき、いわゆる恋人つなぎになるまでは。

「え、あ……え?」
「なんて顔してるんだよ、一貴。怒ってんのか笑ってんのか、どっち」

 どちらでもない。
 だが、自分が恐ろしく人相の悪い表情になっているだろうことは想像がつく。ついでに声まで上擦ってしまう。

「いや、あの……どうして」
「だっておまえ、こうしたかったんだろ? 高2のときさ」

 息が止まるかと思った。
 なぜ其扇が、あのときの蓼丸の衝動と恋心を知っているのか。
 蓼丸が話したことはない。となれば、当時、蓼丸の想いは其扇に完全に見透かされていたということか。そのうえで其扇は、素知らぬふりで高校卒業までを共に過ごし、アメリカから帰国した蓼丸と「友人として」再会し、強い勧めを受け入れて政治家として立ち、あまつさえ蓼丸を「秘書として」そばに置いたのか。
 そうなのか。
 ほとんど恐怖に近いものを感じながら立ち尽くす蓼丸へ微笑みかけながら、其扇は、いつもの軽やかな口調で続ける。

「このごろ俺、あれこれ昔を振り返ってみるんだよ。一貴はいつから俺のこと好きだったのかなあ、とか。で、ああ水族館のときはもうそうだったのかなって思ったんだ。違う?」
「いや……まあ、うん……」
「な? やっぱりだろ?」

 其扇はひどくうれしそうだ。
 本当にうれしそうだ。嫌ではないのか。友情を裏切られたような気持にはならないのか。蓼丸にはわからない。

「付き合ってからのほうが、俺、おまえがなにを考えてるのかわかるようになったんだよな。子供のころも含めて」

 不可解な話だ。
 蓼丸は逆に、想いを告げてからのほうが多くを見失いがちだというのに。其扇の心も、自分の立ち位置も告げるべき言葉も。

「ごめんな。俺、すっごく鈍かったな。ずいぶん我慢させたろ?」
「……」
「だから、やり直しっていうか……ちょっと足を延ばして一貴をここへ連れてきてみたって、ま、そういうこと」
「晟尋……」
「また変な顔して。うれしいんか悲しいんか、どっちや」

 どちらだろう。
 どちらでもないような気がする。
 ただ、報われたと思う。埋めて腐らせたはずの幼い恋が。

「あのころ告ってくれてもよかったんやで。こないな回り道になってまうなら」
「適当なこと言うな……俺の悩みも知らんと……」
「ふふ。そやな、ごめん」

 言葉遣いも、あのころに戻っていく。
 もしかしたら、心の柔らかさもあのころに戻っているのかもしれない。だから蓼丸の目の奥が熱いのかもしれない。高2のあの日、大阪から京都へ帰り、其扇と別れてから道端の鳥居の陰で流した涙が甦っているのかもしれない。

「泣かんで、一貴」

 手をつないだまま、其扇が、蓼丸の泣きほくろのあたりに口付けてくる。
 その仕草はどこからどう見てもきっと恋人同士のもので、いくら少ないとはいえほかの客から奇異の視線を向けられているに違いない。
 ここは京都から1時間も離れていない大阪だ。もしも政治家、其扇晟尋の顔を見知った人がいたら――。

「駄目だ、晟尋」
「いいって」
「人が見てる。あなたが誰かばれたら」
「いいんだ」
「ですが……」

 続く言葉は、重なる唇に呑まれた。身を強張らせる蓼丸をなだめるように、幾度も幾度も、小さな音をたてて繰り返されるキス。秘書としてたしなめなくてはならないのに、恋人として味わっていたくて、蓼丸は、すべきことをまた見失う。
 けっきょく蓼丸は、其扇のキスを最後まで受けっぱなしになってしまった。

「信じられない。もしスキャンダルにでもなったらどうする……」
「それ。それだってば」

 其扇の人差し指が、蓼丸の鼻先に突き付けられる。

「不倫でもあるまいし、付き合ってるふたりのキスがどうしてスキャンダルにならなきゃいけないんだよ?」
「それは……同性愛に対して、まだ……」

 まだ社会には、根強い差別感がある。

「そういうのをなくしたいから、俺はLGBT法案をどうしても通したかったわけ。一貴だって、したいときにキスしたいって言ってただろ」

 たしかに言った。
 IAF直後の去年夏、夕映えの病院の屋上で。

「俺はね、一貴。おまえを愛してるって口にした時点で、覚悟を固めたよ。秘書のままだろうと対立政党の議員になろうと、おまえは俺の大事な彼氏なんだ。それを理由に潰されるもんかって思う」
「え? それが理由で、あんなに力を入れてたんですか?」
「もちろん、去年の渋谷爆破事件のことが大きいよ。あの事件は、突き詰めればあの子じゃなくて、マイノリティへの差別そのものが犯人だ。だから差別問題を放置しちゃいけない」
「……」
「でも、おまえと付き合ったことで、俺も問題の当事者になったんだよ。だから……だからさ……」
「はい」
「可決、させたかったなあ……」
「そうですね――」

 また水が揺らめいて、其扇の瞳に青い影を映し込む。
 その瞳は何者でもなかった13年前のままのようで、だが、決して同じではない。長い時と多くの経験を経て、誰より強く有能な政治家へと成長しつつある男の瞳だ。

――同じところがあるとするなら、たったひとつ。友人や政治家や盟友や、恋人である以前に、ただ……。

 ただ「俺の晟尋」ということだけ。
 それでいいのだ。
 迷うことなどない、もう。

「俺、LGBT法案が可決したら、次は同性婚だって思ってて」
「はあ。まあ、そういう流れになるでしょうね」
「そっちの法案でも、いずれ俺たち当事者になるかもしれないだろ?」
「……晟尋。それは、プロポーズ……と受け止めていいんでしょうか」
「あ? あー……そうなっちゃう……?」

 格好よく決められないところは、お互い13年前のままかもしれない。

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