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 2021年6月8日
 15時00分
 永田町 衆議院議員会館
 其扇晟尋事務室

 国会議事堂の第一委員会室を出てから事務室に戻ってくるまで、其扇はずっと無言だった。
 だいたいいつも蓼丸は、会議が終わるころを見計らって廊下なりロビーなりで其扇を待つ。今日もその例に漏れず、会議室からいちばん最後に出てきた其扇へ「お疲れさまです、先生」と歩み寄ったが、だいたいいつもなら鷹揚に微笑み返してくるはずの其扇は、なぜか固く口を引き結んだまま小さく肯いてみせただけだった。弁舌爽やかと評判の、それよりもなお雄弁で人心を惹くと蓼丸がひそかに思っている其扇の瞳も、いつになく翳っていた。明らかに其扇は、なにかを思い悩んでいる。やりきりなさとか怒りとか、ともかく屈託を抱えている。

――晟尋も、俺に隠す気はないみたいだな。

 中学生のころから、其扇は、不快や嫌悪と言ったネガティブ感情をあまり顔に出さないほうだった。政治家になってからは、さらに意識してそのセルフコントロール力に磨きをかけているらしい。が、蓼丸だけには隠しおおせるものではないと充分わかっているのだろう。事務室に戻ってデスクについたとたん、其扇は、虚脱したように椅子に沈み込んで深く長い溜息をついた。

「駄目だ……この国会での法案成立は絶望的っぽい……」
「そうでしたか。やはり、例の文言がネックなんですね」
「うん。差別は許されない、って一言を入れちゃうと罰則が伴うからだって」

 いわゆる『LGBT法案』をまとめるための党内委員会が発足したのは、数年前のことだ。政権を担う民自党としても時代の流れに逆らえず、つまりはなかば渋々と動きだしたのだったが、2年前、野党議員も参画して超党派委員会となって以降、法案は加速度的に具体化した。市民団体や識者の意見はもちろん、L(レズビアン)G(ゲイ)B(バイセクシュアル)T(トランスジェンダー)およびQ(クィア)当事者たちの意見も丁寧に吸い上げ、今国会で法案成立の目処が立つまでに漕ぎつけたのだ。
 ところが今日、法案提出の最終調整である民自党総務会でストップがかかった。表向きは「審議日程が取れない」という理由だったが、実際は、超保守派に属する議員らの強硬な反対によるものだろう。

「罰則が伴うと、訴訟も多発する恐れがある。だから『差別は許されない』じゃなくて『差別があることを認識して理解を促す』にするなら通すってさ。でもさ、それって法案としてなんの意味もなくないか。要するに、骨抜き法律ってことだろ」

 其扇の口調は、めったにないほど強い。
 去年起きた渋谷爆破テロ事件によって、社会の裏に隠れた差別を目の当たりにした其扇は、人種および性的マイノリティ問題に真摯に向き合うようになった。くだんの『LGBT法案』についても、委員会発足以降数年分の議事録すべてを熟読し、LGBTコミュニティのもとへ足を運んで現状を学び、党内のつてをたどって委員会にオブザーバー出席するほど力を入れてきた――のを、蓼丸は見ている。毎日、つぶさに。

「こんなんじゃ、一緒に頑張ってきた野党に顔向けできないじゃないか。最後の最後で民自党がブロックするなんて、呆れられて当然だ」
「……」
「もうさ……社会の多様化についていけてないのは、国民じゃなくて行政のほうだよ。もっとはっきり言うと、民自党の老害だよ。そう思わないか、一貴?」
「……」

 同意を求められて、蓼丸は、答えに詰まった。
 むろん、いち国民としては全面的に賛同する。どのような人種であろうと性指向であろうと、ひとしく尊重され、共存できる社会であるべきだ。
 そして、そうした理想を実現すべく努力している其扇を、優れた政治家だと心から思う。
 しかし。

「……なに。どうしたんだよ。なんで黙っちゃうんだよ」

 どう答えたものか。
 蓼丸は数秒ほど逡巡し、最大限言葉を選んで切り出した。

「先生のお考えはよくわかります。ですが党として決定した以上、その意向に従うべきかと」
「一貴……?」

 言えたらいいと思う。
 蓼丸が父・大延曜太郎の地盤を継ぎ、野党である自由革新党から政治家として立ったなら、其扇の理想を実現すべく尽力すると。
 だが、いまだ其扇の秘書である蓼丸は、志はあれど確約ひとつできないのだ。

  「先生のキャリアを考えますと、いまは党の重鎮や執行部に逆らうのは得策ではないでしょう」

 言えたらいいと思う。
 党上層部に逆らったところで、潰されるだけなのは目に見えている。其扇が言うところの「老害」におもねってでも、いまは力を蓄えるべきだと。つまりは、ひたすら忍従しろと。でなければ、蓼丸がすべてを賭けて其扇を政界へ送り込み、尽くしてきた、そのすべてが無駄になってしまう。
 だが、どう言葉を尽くしても、結局は蓼丸のエゴと受け取られてしまいそうだ。

――ああ、どう言うのが正解なんだ。

 友としてならば、気がすむまで愚痴を聞いてやることができる。
 秘書としてならば、政治家としての保身と処世術を説けばすむ。
 盟友としてならば、理想を共に語ればいい。
 恋人としてならば――。

――正解がわからない。

 蓼丸は迷い、躊躇い、言葉をとめた。もっとほかの、違うなにか言うべきなのに、続く言葉を見失っている。

「そうか」

 其扇は、短く、淡々と肯いた。
 其扇の瞳は、すでにやりきれなさも怒りも消えて、ただ静かだった。それから、なにごともなかったように承認待ち書類を手に取り、黙読し、サインをし、判を押すというルーティンワークに没頭しているようだった。

――俺の答は、晟尋を失望させたのだろうか。

 だとしても、其扇は、持ち前のセルフコントロール力で押し隠したのだろう。
 子供のころからそばにいても、蓼丸は、いまだ其扇の表情ひとつ読みきることができない。
 身体を重ねてしまうまで、其扇のことならばなんでもわかると思っていたのに。

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