2020年8月8日
20時30分
東京都港区広尾
東郷遊馬 自宅
今日からお盆休みに入り、其扇は、約束通り遊馬のマンションへやってきてくれた。これからまるまる1週間、ふたりきりで過ごすのだ。どれほど酷暑だろうと関係ない。一度も外へ出るつもりはない。ブラインドやカーテンを閉めていれば、ずっと裸でいたっていい。
「とはいえ、さすがにスマホやパソコンの電源まで切っておくわけにはいかないよな?」
「そうですね、緊急の場合も考えますと。……って言ってるそばから、ほら、パソコンから通知音してますよ」
「えっ? あ、ほんとだ。ああもう、ちょうどコーヒー淹れてるときにっ」
「出てください。あとは私がやっておきますから」
「ん、ありがと。よろしく」
半分ほど落とし終わったコーヒーを其扇にまかせ、遊馬は、部屋の片隅のパソコンの前に座る。思った通り、実家からのビデオ通話のコールだ。通話ボタンをクリックすると、弾けるような甥姪たちの声が聞こえてきた。
『もしもーし、遊馬兄ちゃん?』
『遊馬兄ちゃーん、美晴でーす』
『正希でーす』
『正大でーす』
彼らにとって遊馬は叔父だが、あまりにも齢が近いので「兄ちゃん」と呼ぶ。
「おー、おまえら。嵐山に着いたのか。お父さんやお母さんも一緒か?」
『そうそう。今日のお昼ころ集まったんだよー』
『いま、じいちゃんとばあちゃんも一緒に、みんなで花火してたんだ』
4人の甥姪のうしろに、兄ふたりとそれぞれの妻がいる。さらに端のほうには介護ベッドで上体を起こしている父と、介添えをする母が見えた。全員が、画面越しの笑顔を遊馬へ向けていた。甥姪たちは我先に、言葉を被せ合うようにして故郷の様子を伝えてくる。遊馬は、そのひとつひとつに相槌を打ち、笑顔を返す。
『遊馬兄ちゃんはこっち来ないの?』
「兄ちゃん、ついこないだ帰ったからな。今年は東京でひとりで過ごしてるよ」
『えっ、かわいそう』
『遊んでくれる彼女いないのー?』
「彼女かあ。彼女はいないんだなあ」
こんな会話は、昔からだ。誤魔化すことは慣れている。
だけど、いつまでも続けはしない。いつか肉親だけには、好きな彼氏がいるのだと堂々と言えるようになりたい。
急がなくていい。少しずつでいい。いつか、そう、いつか――……。
『あれ? 兄ちゃん、そこ誰かいる?』
『ほんとだ。いまちょっとだけ見切れたよね?』
「……えっ?」
『ほらほら、また。あ、マグカップが見える』
指摘された通り、パソコンデスクの上でマグカップが湯気をたてている。たったいま、其扇が置いたのだ。ご丁寧に、ふたつ揃えて。
『うっそ。マグがペアじゃない?』
『やっぱ人いるじゃん! 兄ちゃん、いまの誰!?』
其扇は、パソコン内蔵レンズの画角の外に立って遊馬を見ている。薄く笑みを浮かべている。遊馬は、ほとんど呆然と其扇を見詰める。
『誰誰、誰なの。もしかして、ほんとに彼女?』
彼女ではない。彼氏だ。
遊馬がそう答えようとしたとき。
「ねえ遊馬。俺、先にお風呂入ってるよ」
其扇が言った。パソコンのマイクが拾えるくらい、はっきりとした声で。
もう間違いない。
其扇は「そのつもり」でやっている。
『……なに……お風呂……?』
『声、男……? え、テレビの音とか?』
『いや、だって、遊馬、って』
『え? ええええ? 兄ちゃーん?』
ここまでの映像は、両親や兄夫婦らも見ただろう。其扇の声も聞いただろう。もしかしたら父などは、声の主が誰か気付いたかもしれない。
「……いいの?」
遊馬は、唇の動きだけで其扇へ問い掛けた。
「いいよ」
其扇も、唇の動きだけで答える。
『遊馬兄ちゃーん。おーい』
『ねえ、ねえって~』
甥姪たちがしきりに呼び掛けているが、遊馬は、ろくに画面を見もしないまま「ごめん、またな」とだけ言い、一方的に通話を切った。
部屋はふたたび、遊馬の其扇だけの世界となる。
「晟尋……」
「やっちゃいました。匂わせ? ってやつ?」
其扇の笑みが、困ったような決まり悪げなものになる。なにも言えないでいる遊馬に歩み寄り、額にキスをひとつくれた。
「さっきの様子だと、たぶんまた通話してきますよ。明日かな、明後日かな。あの年ごろは好奇心のかたまりだから」
「……」
「そのときのために、もうひとつ仕込んでおきましょうか。さ、出して?」
「出すって……」
「そこの箱。ごめんね、さっき中身見ちゃったんです」
其扇が、キーボード横に置いてある、掌に乗るほどの箔押し小箱を指差した。
見つけられてしまったのか。いや、違う。遊馬は、其扇に見つけてほしかったのだ。だから、こんなに分かりやすいところに置いておいたのだ。
遊馬は小箱を手に取り、蓋を開けた。中には、冷たく澄んだ光を放つ大粒サファイアのピアスがひとつ。
「綺麗ですね」
「……うん」
「私のイメージは青って言ってましたね。だから買った……違う?」
「……違わない」
女々しいと呆れられそうで、自分から切り出せなかった。好きな人のイメージカラーのアクセサリーを身につけていたいなど。
「せっかくだから、つけたら? 若い子は目敏いから、必ず気付くと思いますよ」
「……いいの?」
「いいよ」
遊馬は、つけている赤いピアスを外し、青いピアスを持とうとした、が、指先が震えて上手くつまめない。
「やってあげる」
其扇の手が伸びてきて青いピアスをつまみ取る。遊馬の柔らかな耳朶を刺し通し、留め具を嵌めた。
其扇の色のピアスを、其扇に許され、其扇によって耳朶に嵌めてもらう。
それがどれほど遊馬にとって特別な意味を持つのか、其扇はきっと分かっている。
「似合いますよ、遊馬」
好きだ。
誰よりも好きだ。
「晟尋――!」
気が付けば、其扇の首筋に顔をうずめて掻き抱いていた。其扇が遊馬にしてくれたことのすべてが嬉しすぎて、胸が溢れてしまいそうだ。つらかった過去の記憶、重ねてきた苦い嘘、そんなものどもを洗うように、ひと筋の涙が其扇の首筋を伝った。
「……晟尋……晟、尋――……」
「泣き虫ですね、遊馬」
そう言う其扇の声は、どこまでも甘くやさしい。