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 同日
 19時30分
 東京都港区広尾
 東郷遊馬 自宅

「びっくりしたよなぁ。まさかマンションのロビーで晟尋に迎えてもらえるなんて思わなかったもん。新幹線の到着時間に合わせて待っててくれたんだ?」
「びっくりしたのはこっちですよ。まさか遊馬がタクシーから降りてくるなんて」
「え? なんで?」
「だって……気持ち悪くならなかったですか?」

其扇に言われて、はじめて気付いた。
5月、渋谷爆破テロ事件に巻き込まれて以来、遊馬はタクシーに乗るとフラッシュバックによる嘔吐感に襲われるようになっていたのだ。

「全然大丈夫だった。というか、忘れてた」
「ほんとに?」
「うん。そもそも乗るとき、酔うかもって思い出しもしなかった」

なぜタクシーに乗ることができたか、理由なら分かる。新幹線を降りてから、いや、京都を発ったときから、いや、4日前に別れたときからずっと、其扇のことばかりを考えていたからだ。其扇のことしか頭になくて、つらい記憶の甦る余地さえなかった。

「すごいな。晟尋のおかげだよ、ありがとな」
「私の? どういう意味?」
「晟尋がいてくれるだけで、俺はどんどん幸せになっていくってこと」

幸せだ。
顔を見て、触れて、抱きしめてキスできること。居心地のいい自宅で一緒に過ごせること。こうして其扇のために、とっておきのコーヒーを淹れてやれることが。なにもかも、すべて。

「コーヒー入ったぞ。自分のぶん持ってって」

キッチンカウンターに置いたマグカップのひとつを其扇が手に取る。赤い飛行機が描いてあるものだ。

「あ、それ違う。晟尋のはこっちだろ。青い船が描いてあるほう」

付き合い始めて2カ月。遊馬のマンションには、色違いの食器やタオルや歯ブラシなどが少しずつ増えている。

「そうでした。だけどなぜ、なんでもかんでも私が青で遊馬が赤なんです?」
「俺の中で、晟尋は青って感じでさ」
「どうして?」
「さあな」

渋谷爆発テロ事件の翌々日。
父を見舞いに来てくれた其扇と、病院の屋上で缶コーヒーを飲んだ。ふたりはまだ「政治家と後援会長の息子」でしかなかったが、其扇は、言葉少なに、しかし誠実に遊馬と向き合ってくれた。あのとき見上げた空の、しみるほどの青さがそのまま其扇のイメージになった――とは、気恥ずかしくて言わずにおく。

「実家では、俺の色は昔っから赤なんだ。きょうだいがいると、どれが誰のかすぐ分かるように色分けするだろ? うちは上の兄貴が緑、下の兄貴が黄色でさ」
「私はひとりっ子だからそういうのありませんでしたけど、いいですね、賑やかそうで」

其扇と「カップルっぽい」ことや家族のまねごとをするのが好きだ。遊馬のすることを拒みもせず、さらりと受け止めてくれる其扇がたまらなく好きだ。
俺はいま、恋をしている。
甘く切なく、遊馬は思う。

「家族といえば、遊馬。ご両親に言いたいことは言えた?」
「……あー……」

ティーンエイジャーのような恋に浮かれていた気分が、ふたたびどんよりと塞ぐ。
今回の京都への帰省は、強引に東京の病院から退院した父の付添というのが表向きの理由で、じつはこの機に、ずっと隠し続けてきた自身のセクシュアリティを両親に告白しようと思っていたのだった。理解されなくてもいい、大切な家族に対して自分を偽るのはもうやめたいと――だが。
遊馬の反応に不首尾を察した其扇が、困惑したように言う。

「えっ、駄目だったんですか? ゆうべのメッセージでは上手くいってそうだったのに。まずは遊馬から、付き合ってる人がいるって切り出したんでしょ?」
「うん、夕食後にな。俺、誰かと付き合ってることを報告したのはじめてだったから、おふくろも喜んでくれたよ。でも、親父が『よかったな、彼氏か?』って突っ込んできたとたん、おふくろの顔色が変わってさ……」

どういうことかと気色ばむ母を、まあまあ落ち着けと父が宥めた。その晩、遊馬はかつての子供部屋に逃げ込んでしまったので、どんな顛末になったのかは知らない。

「今朝起きて、台所にいるおふくろに『おはよ』って言ったら、振り向きもせず冷たーい声で『おはようございます』って返したきり、あとはずーっと黙ってて」
「うわ、怖」
「ああこりゃ失敗したと思うだろ。だから俺、午前中のうちに東京へ戻ってきちまおうと荷物まとめてたんだ。晟尋に早く逢いたかったし」

ところが母は、能面のような無表情、冷えびえとした声音のまま遊馬を引き留めた。

「話はまだ終わっていません。チェックアウトのお客様をお見送りしてから戻ってきますからそれまで待っていなさい、ってさ」
「ああ……ふだんニコニコしてる方だけに怖そうだねえ……」

遊馬の母と其扇は、何度か面識があるという。遊馬の父が其扇の後援会会長を務めていた関係上、選挙の際は、母も婦人会員として働いたのだ。老舗旅館の女将ならではの人当たりのよさ如才なさで、それなりに活躍したらしい。
「で、昼前になって座敷で膝詰めで迫られてさ。彼氏とは同性愛の相手なのか、友人とは違うのか、どこで知り合った人で、仕事は、名前は、齢は、って質問攻め」
「ひえー……」

母は、遊馬をなじりはしなかった。決して貶めるような言葉は口にしなかった。ただ、末っ子の相手の人となりを厳しく詮索してきた。横で聞いていた父が「母さん、そんな箱入り娘に手を付けられたみたいにならなくても」と窘めたほどだ。

「それで? 遊馬は答えたの?」
「言えるわけないだろ。のらくら誤魔化してやり過ごしたよ」
「ちゃんと私のこと話して、安心させてあげればよかったのに」

其扇のひと言で、遊馬の全身の血がぶわりと沸く。それははじめ驚き、ついで激しい喜びだった。
其扇が、遊馬の恋人であると自認してくれていること。ごく限られた範囲ではあるが、オープンにしてもいいと思ってくれていること。そしてなにより、遊馬の母の心情を慮ってくれること。
嬉しかった。
有り難かった。
こんなに幸せでいいのかと思った。
好きだという思いで、胸が溢れそうだった。

「晟尋ぉ……すごい男前だなぁ……惚れ直しちゃうぞ……」
「ははっ、どういたしまして。でも、このままじゃお母さんも納得してくれないんじゃないですか?」
「そうなんだよな。俺が具体的なこと答えなかったんで、どうもおふくろは、俺の好きな人っていうのはイマジナリー彼氏だと思い込んだみたいで」

遊馬が徹底して「彼氏」の実存に関わることを言わなかったために、母はかえって「彼氏」の不在を確信したような節があった。母子の膝詰め談判の最後は「あんまり夢みたいなこと言って親を驚かせるんじゃありません」で締められたのだ。

「なんかそれはそれで腹が立つっていうか悔しいっていうか。俺、ちゃんと晟尋と付き合ってるのにな、って。それで、もやもやしたまま東京に戻ってきてさ……」

愚痴を連ねようとした遊馬の言葉は、そのとき、ふいに奪われる。柔らかな唇で、唇を塞がれている。ついばむように幾度か重ね、舐め、軽く咬む。少しだけ誘うように舌を差し入れ、すぐに引く。いつも遊馬を夢中にさせる、其扇のキスの手管だった。今日も遊馬は、たやすく夢中にさせられる。この先もきっと、ずっと。何度も、何年経ったとしても。

「ん、ぁ……晟尋……」
「ふふ――……仕方がないですね。じゃあ次に……今度帰省したときにちゃんと話したらいいですよ……」
「ん、ん……いや、やめとく……」
「どうして……? 相手は其扇だって言っても構わないよ……?」

ああ、酔わされる。溶かされる。キスと愛撫の心地よさに溺れてしまう。其扇のことしか考えられなくなる。そうなる前に、遊馬なりのスタンスを説明しなくては。

「……ん、ぅ――……あのさ、俺……政治家の晟尋も好きなんだ……支えたいんだよ……」
「うん……うん――」
「だから……ちょっとでも……スキャンダルにされそうなことは言わない。そんなのは、俺のセクシュアリティとは切り離して考えてる……でも、ゲイだってことを恥じてるんじゃなくてさ……」

こんな言葉足らずで、其扇に伝わるだろうか。
其扇はただ、いてくれるだけでいいのだ。遊馬の想いを受け止めて、たまに甘やかしてくれればいい。それだけで遊馬は、自分自身を肯定できる。
ゲイであることは遊馬の個人的な問題であり、その事実を肉親に認めてもらうことは、其扇とはなんら関連がない。
遊馬は其扇に恋しているが、其扇の社会的地位ごと、政治家としての未来ごと引き換えにしてほしいわけではない。
……というようなことを、キスの合間の切れぎれに囁く。ときに舌で絡めとられながら、吐息で散らされながら。

「遊馬は……ほんとうにやさしいね――……」
「――ん、ぁ……そう、じゃない……晟尋のことが、好きなだけ……、っふ……」
「でも、ねえ……遊馬はそれでいいの? お母さんにそんなふうに思われたままでいい……?」

よくはない。
イマジナリー彼氏、つまり、いもしない存在を妄想しているだけだなどと思われるのは、たとえ親であっても心外だ。

「気長に説明していくよ。帰るたびに幸せアピールしたりして」
「次のお休みとか?」
「いや、盆休みには東京にいる。今日まで帰ってたばかりだろ。兄貴たちは家族ぐるみで帰るみたいだけど」
「それって淋しくないですか? 遊馬以外は家族団欒してるんでしょう?」
「途中で絶対、甥姪たちがビデオ通話してくるから。1対10……いや、もっとか? 画面に一族がみっちり詰まってて、相当な圧なんだぜ」
「あははっ、すごそう」
「うん、だから……だからさ、晟尋……」
「ん?」
「来月の盆休み……俺とずっと、いてくれない……?」

今度は、遊馬からキスを仕掛ける。其扇からのキスよりも、つい濃厚になってしまうけれども。

「俺、これからも頑張るからさ……ご褒美に。駄目?」
「……末っ子だなあ。おねだりが上手すぎ」

仕方ないな、と其扇は、あやすような溜息で受諾してくれる。

「いいですよ。国会は期間外だし、IAFも終わってますしね」

そんなクールなもの言いも好きだ。

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