一瞬の浮遊感。何がなんだかわからないうちに、全身に
激痛が走って息が上手く出来なくなった。
それから妙な熱さと、締め付けられる首の圧迫感。
動けない。誰かに、何かに自由をいきなり奪われてしまったという焦り。
【八重】
「はぁ……、こんな簡単に押し倒されるとはなぁ。拍子抜けだ。
こんな奴のどこに、あいつが守る価値があるんだか」
【真秀】
(声……人間?)
自分をいきなり襲ってくる人間など見当もつかない。
混乱する中視界がなんとか戻ってきて、一番最初に目に入ったのは
面布だった。
ということは……。
【真秀】
(鬼――?)
ぞっと、今度は背中に寒気が奔る。
一番考えたくない出来事が起こってしまった。鬼の領域に
入ってしまっていたのだ。
家の方に走るのが正解だったか……と悔やんでももう遅い。
刀の無い状態でこんなことになれば、己が打つ手はほとんどない。
このまま首をねじ切られて終わってしまうのか。
【八重】
「お前だろ、最近俺のもんを勝手に使ってんの」
鬼の言葉に違和感を覚える。
鬼は突然ここに出たわけではなく、自分を認識している様子だ。
混乱はまだ収まらず、思考を言葉にもまだ出来ない。
鬼はそんな真秀にイラついたように首をぐっと締め付ける。
【真秀】
「う……あ……」
問いかけているのに喋らせる気はないのだろう。
とはいえ、とても苦しいけれど呼吸は辛うじて出来るから、
直ぐに殺す……殺すことが一番の目的というわけではないのだろうか?
【真秀】
(さっぱりわからない、なんだこれ)
視線、夜になったこと、目の前の鬼、言われている言葉。
色んな事を考えるも、鬼が何を目的にしているのか
真秀には見当が付かない。
何とか外せないかと鬼の腕を掴む手に力を込めるが、
鬼は楽しそうに口元を緩めるだけだった。
【八重】
「おっと、これじゃ死んじまうな。
いけねえいけねえ」
笑いながら自分の生き死にで遊んでいる。
強者からの圧倒的で理不尽な暴力は、
こんなにも屈辱感を与えるものか。
腸が煮えくり返るような怒りを覚えても、
今の真秀にはやはり打つ手がない。
視界が赤くなっていくのは呼吸のせいか、
それとも屈辱と無力感のせいか。
【八重】
「早く出せ、死にたくないだろ?」
【真秀】
「――なっ、にを……っ」
【八重】
「鬼。お前、連れてんだろ」
【真秀】
「――っ!」
【透佳】
「あれ? 伊武さんだ」
歓談していると、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
伊武につられて声の主を見れば、件の美丈夫が立っている。
【伊武】
「おや、透佳さん。お邪魔してます」
【透佳】
「俺も参加させてよ」
【伊武】
「透佳さんのお願いだったら断れないな」
【真秀】
(二人とも知り合いだったんだ……)
透佳は遠慮なく、と言うように腰を下ろす。
硯はまだしも、あの鬼にしか興味のなさそうな穂純ですら
透佳と相席することを受け入れている。
接点の無さそうな二人なので、親しげに話している姿に驚く。
静華楼は伊武の行きつけということだから、
顔を合わせることも度々あったということだろうか。
真秀の予想を裏付けるように、
伊武が何度も静華楼に通ううちに仲良くなったのだと説明する。
【透佳】
「真秀くんも伊武さんのとこの子だったんだね」
【伊武】
「おや、二人は知り合い?」
【透佳】
「この間蘇芳庵の旦那のところで知り合ってね。
全然来てくれないなと思ってたんだけど、
伊武さんと来るとは思わなかったなぁ」
【真秀】
「……すみません、時間が取れず」
【透佳】
「いや、別に責めてるわけじゃないよ。
こうして会えて良かった」
【真秀】
「僕も来られて良かったです」
その場しのぎの口約束を覚えていたことに驚きつつ、笑顔で返す。
真秀の笑顔に、透佳は微笑みを深くした。
なんとはなしに硯を見ると、なにやら思案顔をしていた。
いつになく真剣な表情だ。
何かあったのだろうかと様子を見ていると、
少ししてからにやりと笑顔を浮かべて真秀に話しかけてきた。
なんだか嬉しそうである。
【硯】
「真秀君って、もしかして甘いものが好きなの?」
【真秀】
「は、はい、好きですけど……」
自分として改めて伝えたことは無かったが、
確かに隊室などでは菓子を食べたことは
無かったかもしれない。
【硯】
「実は俺も好きなんだ、甘味。
そっかぁ、真秀君が甘味好きだなんてなぁ。
ね、今度一緒に甘味処に行こうよ」
もともと笑顔でいることが多い硯だが、
今の笑顔は一段と輝いているように見えた。
本当に甘味が好きなのだろう。
きっと彼は甘味仲間を見つけて嬉しいのだ。
気持ちがわかるのは、
真秀もまた硯が甘味仲間だと知れて嬉しいからである。
【真秀】
(これも酒の効能……とか?)
お酒が入ると、とまではいかないが、確かに
自制心が少し緩くなっていつもの会話よりも
気さくに話せている。
【晴】
「……なんだこれは」
【真秀】
「わっ」
座っていたはずの晴が、肩越しにそう尋ねた。
興味深そうに包みをじろじろと見るので、
包みを開けて中の黒に近い小豆色を見せる。
【秀】
「ちょっと、主に近づきすぎですよ!」
【晴】
「私への礼をじっくり見て何が悪い」
【真秀】
「まあまあ、秀にはこれをあげるから」
【秀】
「わーい大福ですね!」
機嫌を直した秀を横目に、晴に菓子を説明してやることにした。
【真秀】
「羊羹ですよ。
小豆や寒天を使った甘味です」
【晴】
「ふむ、羊羹と言うのか」
初めて見聞きしたといった風の晴に少し驚いて、
まあそんなこともあるか、と納得する。
何せ彼はとうせん坊と暮らしているのだし。
【真秀】
「今までどんな菓子を?」
【晴】
「んー、甘納豆ばかりだった」
だから先ほど確認したのか。もしかして甘納豆だったら
今回の礼は金でいい、と言われてしまったのかもしれない。
【晴】
「つまり羊羹とはなんだ?」
なんだ、と問われてどう説明したらいいだろう。
……甘納豆と比較するのがいいか。
【真秀】
「素材はさっきも言った豆で、そこは甘納豆と一緒です。
でも砂糖を入れて煮越して、寒天っていうもので固めた
凄い甘くて食べ応えがあるものです」
日持ちはするし、お茶に合う。
甘さが活力になるし腹持ちも悪くない。
比較的安価で手に入るのも良い。
【真秀】
「しかもこれ、細かく刻んだ栗が入ってるんですよ」
【晴】
「おお……!」
だから礼として出すにはちょうど良い一品と思ったが、
羊羹を初めて食べる彼は、舌が肥えて普通の羊羹を
美味しいと思わなくなってしまうのではないだろうか。
【真秀】
「ちゃんと味わって食べてください。
特別な羊羹ですから」
真秀は自分に聞かせるように言ってから、
どうやって渡そうかと思案した。
丸ごと一本渡すわけにもいかないし、
一切れだけあげるというのは器が小さい。
どうせなら自分も食べてしまおうと、少し多めに切り分ける。
そわそわとしている気配が伝わり、
真秀は晴をちらりと見る。
すると視線に気づいた晴が、羊羹に注いでいた視線を
真秀へと向けた。
【晴】
「む、なんだ?」
【真秀】
「……いえ。
甘いものが好きなんですか?」
【晴】
「甘いもの……菓子は食べると嬉しい気分になるからな。
そうかもしれん」
【真秀】
「なるほど」
そのあたりは自分と一緒か。
彼が今後菓子を色々食べる機会があれば、味について
もっと語ることもあるのかもしれない。
【真秀】
「どうぞ」
何より楽しみにされていて悪い気はしない。
切り分けたものを持って行こうかと思ったが、
晴の体制からして動くつもりはないようだ。
座らずに食べるのは行儀が悪いけれど、叱ってくるような
人もいない。
そもそもここは長屋であって、料亭ではないのだから――と
自分に言い訳をする。
【真秀】
「はい、どうぞ」
真秀が晴へ羊羹を差し出すと、
晴は少しの間それを眺めていたが、
ぱかりと口を開いた。
【晴】
「ん」
【真秀】
「は?」
食べさせろと言うように顎をクイと前に出す。
子供のような振る舞いに、真秀は呆れた声を漏らしてしまった。
自分の子供でもなければ恋人でもない相手に、
まさか食べさせて欲しいと強請られるとは思わなかった。
そういう仲でもない相手に
手ずから食べさせるのがなんとなく嫌で、
真秀は晴を無視して再び羊羹を楊枝ごと差し出す。
自分で持って食べろと言外に告げたつもりだった。
すると晴が、身を乗り出すように頭を出して、
羊羹を口へ含んでしまった。
視線を合わせてみればなるほど、この男が鑑賞されるのに
耐える相貌であることがわかる。
明るい紫の瞳は雨に咲く紫陽花であり、
勝気な眉と優し気な眦は見た人間に都合のよい勝手な想像を
掻き立てさせる。
勝手に魅力を感じる人間は後を絶たず、だからこそ
許される……こうして人の都合に入り込む自信も持てるのだろう。
【真秀】
「……よく食べに来ていますよ。あなたは?」
そういう人間に素知らぬふりは諦めたほうが得策だ。
当たり障りない対応で済ませようと顔を向ける。
【透佳】
「好きではあるけどね。まあお遣いが多いかな」
お遣い、そういえば静華楼という店にいるのだったか?
【真秀】
「では今日も?」
【透佳】
「そう。言われて取りに来たんだけどね、
出来てるはずだからって。
旦那のあの慌てっぷり、完全に忘れてたと思わない?」
【真秀】
「……、確かに」
現にまだ品物を持ってこちらに来ないところからも
少し遅れている、どころか失念していたというのが
正しい気がした。
けれどあまりに責めるのは、いつも美味しく
菓子を食べている身としては気が引ける……。
【真秀】
「もしかしたら自分も忘れさせちゃった原因かもしれないので……」
【透佳】
「原因? 何で? 旦那と殴り合いの喧嘩でもした?」
【真秀】
「……っ」
意外な話の展開に思わず笑ってしまった。
自分と店主が殴り合いをする想像がどうしても付かなくて
妙に滑稽だ。
【真秀】
「理由はなんですか……」
【透佳】
「ん? ほら、カステイラの甘さが昨日と違う! とかそのあたり」
【真秀】
「……っ」
確かに持ち帰りのためにカステイラは買ってあったし、
常連だとも言った。それがこんな物語に発展してしまうとは。
【透佳】
「ああ、それか――それも加えて最中の粒の硬さに
一家言ある性格で……」
【真秀】
「誰が」
【透佳】
「君が」
さも当然というように頷かれてついに笑ってしまった。
自分が菓子への情念を燃やす男になってしまっているじゃないか。
確かに手帳に書く位にはこだわっているけれど、殴り合いは
流石にしない。
【真秀】
「これは店主に弟子入りですね……」
【透佳】
「はは! そりゃあいい。お遣いの待ち時間が減ってくれる。
それで俺が言うんだよ、粒が固くない? って」
【真秀】
「はは……」
透佳との会話は存外続いた。
突飛もない話題で笑わせてくれるものあるが、
戻ってくる言葉が受け止めやすい。
【真秀】
(人気があるって見ためだけの力じゃないんだな)
内面も楽しい人だ、そう意図せず思う。