同日
13時30分
東京都文京区本駒込
白洲邸 桜のお茶会にて
着付けを手伝ってほしいと言っていたくせに、其扇は、手慣れた仕草で着物を身につけた。直前まで戯れていたために時間が押して、白洲も自分で自分の世話をせねばならなかったので助かった。……というものの、襦袢姿の其扇の艶めかしさをもっと堪能していたかったのが本音である。
が、ともかく茶会は始まった。
いの一番は主客に譲るがよかろうと、開始から少々経ったころを見計らい、白洲と其扇は連れ立って庭に出た。
「わあ……さすが、華やかですねえ」
お運び役の生徒は別にして、いまいる客は20人ほどだろうか。ほとんどが女性であるから、色とりどりの着物姿がまるで花々のようなのである。常盤や新緑に縁どられた池のそばまで行けば、空の青を映した水面に薄紅の花筏が流れている。床几にかけた毛氈や野点傘の緋色が鮮やかに目を引く。
其扇が呟いた通り、今様の絵巻物とでもいうべき華やかさではあった。そんな絢爛の眺めうちに、淡青の着物に瑠璃紺の袴、かさね色目でいえば「秘色」を纏った其扇が、すっくりと立っている。
「ああ、風が」
そのとき花が舞い散って、白洲の視界は眩む。ほんの一瞬でも其扇から目を離すことがなぜだか不安で、白洲は、失いかけた焦点を取り戻そうと、急いで瞼の花びらを払った。さっきまで、ほんのついさっきまで、白洲の腕の中で熱く喘いでいたはずなのに。
「おい、晟尋」
「はい。いますよ、ここに。どうしました」
声に狼狽が現れてしまったかもしれないと思うと照れくさく、白洲は、紛れてどうでもいいことを言う。
「この会は、女が取り仕切るもんなんだ。だから俺も、出席するのは初めてでな」
「じゃあ、おじい様やお父様はいらっしゃらないんですね。ご挨拶しようと思ってたんですけど」
「さっさとゴルフに逃げてるよ。俺も毎年そうしてた」
祖父と父には、一度其扇を引き合わせたことがある。冬、海釣りに其扇を誘ったのだ。
「とりあえず茶をもらうか。ここらへんでいいだろ」
池を望む席に、並んで座った。すぐにお運びがやってきて、菓子を渡される。食べ終わると、やや薄めに点てた茶を供される。其扇の一連の挙措に迷いはなく、落ち着いている。
「ふうん。茶道をわかってるんだな」
「そりゃあ、京都出身ですから。お茶席を嫌がっていたら京都の議員は務まりませんし」
さもあろう。
よく見れば其扇の袴は後ろを短めに仕立てた茶席用のものだったし、着付けも帯や紐が膨らまないよう片挟みや結び切りで処理してある。
もしも其扇の言う通り、品定めのために家刀自らが招待したのであれば、それこそ白洲は「どうだ」と言ってやりたい。どうだ、この男にケチのつけようがあるか。
「うちの女ども、晟尋を呼んだくせに出てきやしねえな」
「ええ。でも、きっと見てますよ」
其扇は伏し目がちに、だが、不敵な薄笑いを浮かべた。その笑みを見たとたん、白洲の背筋にぞくぞくと震えが走る。寒気でも怖気でもない。心が昂って、抑えきれず震える。
白洲がもっとも好きな其扇の表情だ。愛撫と快楽に蕩けたものよりもいっそ、ずっと。
「いま、この瞬間も、どこかから私を見ているんだと思います。受けて立つしかないでしょうね」
ふてぶてしいまでの胆の太さと、他人の懐にするりと入り込む天真爛漫さ。その不思議な同居こそ、其扇の魅力であり武器なのである。白洲はそこに、どうしようもなく惹きつけられるのである。
――そうこなくちゃな。
この男が、桜の儚さに重なるわけもない。
――むしろ、花吹雪を道具立てに見得を切る千両役者ってとこか。
くやしいことに、白洲は、しばし其扇に見惚れていたようだ。だから、足音もなく近付いてくる人影に気付かなかった。見覚えのある裾刺繍の訪問着が視界にちらついて我に返ったとき、すでにその人物と其扇は会釈を交わしていた。
「其扇さん、ようこそいらっしゃいました。白洲武彌の祖母でございます」
「はじめまして。本日はお招きありがとうございます」
床几から立ち上がった其扇が、卑屈にもならず尊大にもならない絶妙な角度で頭を下げる。祖母がゆったりとした様子で受ける。祖母の後ろには数歩引いて母と妹も控えており、京都生まれの男と金沢生まれの女の、なごやかなようで緊張感に満ちた対面を楽しげに見守っていた。
「結構なお茶をいただきました。ありがとうございます」
「それはようございました。ご覧の通り素人の集まりですので、行き届かないところがございましたらお許しくださいませ」
当たり障りのない会話をしつつ、祖母が其扇の全身を容赦なく吟味しているのがわかる。其扇の着物が西陣の上級品であることも、時代裂の古袱紗を手にしていることも、とうに見抜いているだろう。
受け答えを続ける祖母の視線が、其扇の袴の脇から覗く角帯のあたりで止まる。
――おばあ様、気付いたな。
其扇が着替えているとき目にして、白洲もひそかに感嘆したのだ。
其扇の帯は、四弁の片喰の花を織り出したものだった。白洲家の家紋が三弁の蔓片喰であるから、それを憚って選んだのだろう。誰にでもできる気配りではなく、ともすれば見落とされそうなところにも手を抜かない。さすが京都の男の面目躍如と言うべきか。
祖母の視線が心もち和らいだように見えるのも、白洲の気のせいではないと思う。
「素晴らしいお庭ですね。こんなに気持ちのいい野点は久しぶりです」
「恐れ入ります。今年は残念なことに桜が早くて、見頃を逃してしまいましたけれども」
「いえ。八重桜も今日駒込に匂いぬるかな、でしょう」
祖母がほんの一瞬、真顔になる。母が思わずの笑みを袂で隠し、妹の唇が「うまい」と声なく動いた。
其扇の言葉が『いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に にほひぬるかな』を踏まえていることは、小倉百人一首を知っている者ならばすぐわかるはずだ。ただ聞き流すなら、白洲家の庭に対するゆかしい称賛と受け取れる。
が、この歌は、新入り女官だった伊勢大輔が、宮中行事のさなかに時の権力者である藤原道長の無茶ぶりを受けて即興で詠んだものだという背景を思えば、其扇から祖母への、やや塩のきいた切り返しとも受け取れるのである。
しかし祖母も、だてに海千山千の古狐ではない。むしろ其扇の機転と教養がお眼鏡にかなったか。いや――祖母の豊かな経験と人を見る目は、かつて白洲がなかなか認めることができなかった其扇の優れた資質を、早くも悟ったに違いない。この男は、いずれ日本を動かす可能性がある――と。
祖母は、じつに満足そうな表情で、近く歩み寄った。それこそ、其扇の手を取らんばかりに。
「其扇さん。孫の武彌がいつもお世話になっております。不束者の孫でございますが、末永く仲良くしてやってくださいね」
「こちらこそ。白洲さんには教えを乞うことばかりです」
「どうぞこれからも、遠慮なく遊びにいらっしゃって。お待ちしておりますよ」
「はい」
東西の狐の対決は、ある種の共感を生んで終わったらしい。
祖母、母、妹の家刀自三代が、会釈を残して去っていくのを、白洲と其扇は、花吹雪に吹かれて見送った。
「……ふーっ……」
女たちの後ろ姿が築山の向こうにすっかり隠れたとたん、其扇が大きな溜息をつく。さっきまでの男っぷりはどこへやら、息とともに気が抜けて、ひと回り小さくなったようにさえ見える。
「おい、晟尋? どうした?」
「緊張したぁ~……もう、心臓バクバクですよ……」
へえ、と意外な思いがする。
其扇でも、そんな状態になることがあるのか。
やや行儀悪く、膝に両手をついて腰を折る其扇の姿に、白洲は、なんだかレアなものを見たように嬉しくなる。
「うちのばあさん相手にあそこまで渡り合うなんて、大したもんだぜ? いや、見直した」
「なにを呑気なこと言ってるんですか……私の気も知らないで……」
「ははっ。けどまあ、その甲斐はあっただろ。もうこれで晟尋は、女どものお墨付きだからな」
祖母らのあの様子からすれば、其扇は間違いなく「合格」だ。
下手をすれば、孫よりも出来物だと評するかもしれない。
「そこですけどね、武彌。おばあ様は、なにをどこまでご存じなんでしょうか」
「さあなあ」
「仲良くって、どういう仲良く?」
「さあなあ」
どんなふうにだっていいではないか、と白洲は思う。
白洲にとって其扇は、好敵手であり友であり、ときに癒し安らぐ回帰の場所であり、身も心さえも欲しくなる特別な者だ。そんな存在は、ほかに現れることはない。きっと、ずっと。
だから、どんな定義も無意味だ。
そのことを察したからこそ、女たちは、ささめき笑みを残して立ち去ったのだろう。
――どうだ、これが俺の選んだ男だぜ。
――離さねえからな。
また、吹く風に舞う桜。
花旋風に目をすがめつつ、白洲は、そう呟いた。