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 2021年3月28日
 12時30分
 東京都文京区本駒込
 白洲邸

庭からリビングへ上がり込んだ白洲は、ウォーターサーバーの水をグラスになみなみ注ぎ、ひと息に飲み干した。今日の最高気温は、5月中旬並みの23℃。朝食後からぶっ続けで庭仕事をして、泳いだように全身汗みずくだ。

――まったく、やってらんねえぜ。

都知事として平日フルに、どころか時間超過上等の激務をこなし、ようやく迎えた日曜日だというのに気ままな朝寝も許されなかった。
遠慮のないノックの連打と「たけさん、起きなさい」という呼びかけが襲ってきたのは、ふだんの起床時間よりも早い6時前。年寄りは朝型だというけれど、いくらなんでも早すぎる。無視だ無視、寝たふりだ、と頭から布団をかぶっていたら、なんとドアを解錠する音が響き、えっと思うと割烹着姿の祖母がベッド脇にいた。その手には、いつの間に作ったものか合鍵が握られており、これでは白洲が自前で建てた離れも意味がない。
寝癖頭のまま呆然とする孫に向かって祖母が命じたのは、一週間後に迫った「桜のお茶会」の準備――しかも力仕事――の手伝いだった。

――またしくじった。俺は阿呆か。

祖母は毎年この時期に、政財界要人の夫人や令嬢を招いて観桜会を兼ねた野点を行うが、白洲は必ずその準備に駆り出される。だから用事を作って逃げてしまおうと毎年思うのに、うっかり忘れて毎年捕まる。
とくに今年は、おととい金曜日の夜から土曜日にかけ、いつものホテルで其扇と逢い、思い出すだけで腰のあたりが疼くほど濃厚だった交渉の記憶を反芻していたせいか「おばあ様アラート」がまったく機能していなかった。

「お兄様、お疲れ」

リビングから縁側へ移動して、下駄つっかけの裸足をぶらぶらさせながら今日初めての煙草で一服しているところへ妹が話しかけてきた。一応タオルを手渡してはくれたものの、蒸してもいなければ爽やかに冷やしてあるわけでもない。なんとも雑なねぎらいだ。妹はつけつけとした口調で続ける。

「おばあ様に頼まれた池のそばの草刈りと石除け、終わった?」
「どうにかな。けど、なんであそこなんだ? 野点には使わない場所だろ」

白洲家の庭には、戦前になんとかの宮様から苗を賜ったというソメイヨシノの巨木がある。その花影に毛氈を敷いて野点をするのが恒例なのだが、なぜか白洲が整地を命じられたのは、くだんの桜の向こうにある池の、さらにまた向こうのスペースだった。

「今年は桜が早くて、一週間後だと散りかけになりそうなの。仕方ないから、池に浮かんだ花びらを楽しんでいただくことにしたみたい。たぶん八重も見頃になるだろうって」

なるほどいま白洲が整えた場所なら、ソメイヨシノより遅れて咲く八重桜があるし、ゆるやかな勾配の上にあって池を見渡すことができる。雅な思い付きだが、こき使われるこちとらたまったものではない。……と言いたいが、逆らえば何倍の仕打ちになって返ってくるかわからないと子供のころから身に染みていた。
溜息をついてぼんやりしていた白洲へ、今度は母が奥からやってきて、あのね武彌、と切り出してくる。話すスピードが妹の半分くらいなものだから、白洲の答えも自然とゆっくりしたものになる。

「はい。なんですか、お母様」
「お座敷のほうに利休鼠のお召と袴を出したから、見ておいてちょうだいな」
「ん? 誰のです?」
「武彌のですよ。今年は貴方も出席するんですから」
「はあっ? なんで?」
「だって、お友達がいらっしゃるでしょう」
「誰? え、誰が?」

驚きのあまり語彙が小学生なみになる白洲へ、母は、思いもよらない名前を告げた。

「嘘だろ……」
「招待状のお返事、出席にマルが付いていましたよ」

知らなかったの? という母の声を背中で聞いて、白洲は、韋駄天よろしく庭伝いに離れへ走る。掃き出し窓から部屋へ飛び込み、枕元で充電しっぱなしだったスマホを引っ掴み、着信履歴をタップして目的の番号へかけた。数回のコールももどかしい。

『はい、もしもし。どうかしたんですか、武彌』

張りがあって若々しさに満ちていながら甘く、そして底のほうにほんのわずかな非情さを秘めた声。目下の白洲と「親密な間柄」である其扇の声だ。ふだんなら耳にした途端、白洲の胸の奥は、ふっと柔らかくなるものだが。

「どうしたんですか、じゃねえ。来週、うちに来るってのは本当か」
『ああ。ええ、はい』
「聞いてねえぞ。なんでおととい逢ったときに言わなかったんだ」
『武彌の様子からして知らないのはわかってたんですけどね? そうか、知っちゃいましたか。びっくりさせようと思ってたのに、残念です』

――どうしてこいつは、こんなにのほほんとしていられるんだ。

「来たってどうせうちの女どものオモチャにされるだけだぞ。いまからでもいいから、断っとけ」
『いえ、行きますよ』
「な……」
『おばあ様のお名前でご招待いただいてるんですから。武彌が決められることじゃないでしょう』

間髪入れずに、朗々と。
まるで国会での弁舌を思わせて、よどみなく。
白洲は驚き、戸惑い、絶句する。
と、黙り込んだ白洲を懐柔するかのような、吐息にも似た笑みの気配がスマホ越しに流れてくる。

『まあ、でも、ばれちゃったんでしたらお願いがあります。早めに伺いますから、武彌の部屋で着替えさせてもらえませんか? 議員会館から着物で行くのはちょっとなあ、って思ってたところだったんですよ』
「……」
『ついでに、着付けも手伝っていただけると助かります』

いったい、なにがどうなっているのか。
いや、どうなるというのか。

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