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僕の世界に2度目の色をつけたのは、萌ゆる紅葉のような真朱。
静かに、雄々しく脈打つそれは、僕にやるべきことを示した。
「………」
校舎の喧騒が遠くに聞こえる。
殆ど人の寄り付かないそこは、彼、南谷勇獅の行き着けだ。
授業が終わると必ず図書館に向かって、夜まで篭る勇獅は密かに図書館の住人と呼ばれていた。
館内の一番奥、窓からの光の届かない本棚に埋もれたような席に座り勇獅は本へと目を落とす。
遠くに聞こえる喧騒、古い建物特有の僅かな家鳴り、離れた窓から差し込む柔らかな橙の光。
そのどれもが勇獅には落ち着ける要素だ。
だが、ここに来るのはそれだけが目当てではなかった。
「………」
カタンと僅かな音を立てて椅子から立ち上がると、勇獅はゆっくりと歩き出す。
並ぶ机と本棚の間を通り抜け、古い蔵書の収められた棚を抜けたその奥。
館内の一角を切り取った小さな部屋。
古びたこげ茶の木製の扉の前に立つと、勇獅はその扉に貼られた紙をじっと見つめた。
『関係者以外立ち入り禁止』
差し込む日差しで黄ばんでいる紙には、随分と達筆な筆文字でそう書かれている。
紙の質感から結構な時間が経っているのだろうそれは、端々が破れかけているが妙に威厳があるように見えた。
恐らく書いた人はそういう人だったのだろう。
そう思いながら勇獅はその扉のノブに手を掛ける。
ガチャンっ
ノブを動かした瞬間に硬い感触に阻まれて鈍い音が響く。
資料室のプレートを掲げた扉は開くことはなく、いつもしっかりと施錠されていた。
「………」
勇獅は無言で小さくため息をついてノブから手を離すと、口元に手をやってまた小さくため息をついた。
そしてじっと扉を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「…僕を呼んでいるのは、君なのかい?」
そう呟くと、勇獅は踵を返して資料室から離れていった。
呟いた声は扉に向けられたのか、それともその奥なのか…。
いつだっただろうか。
幼い日に夜毎見た夢に出てくる平和な風景。
降り注ぐ太陽の柔らかい光と萌える緑の瑞々しさ。
穏やかな風景の中で、傍らに感じる存在は酷く心を落ち着けてくれる。
その存在に声をかけようとして振り返ると、目の前を錆びた赤が埋め尽くす。
その色に驚いたところで決まって目が覚めた。
柔らかな自然の色にそぐわぬ真朱。
だが、勇獅にはそれがそこに在ることのほうが自然なのだと思えた。
寧ろ、己の傍らにいることが当然なのだと。
夢は歳を重ねるごとに見ることもなくなり、勇獅自身も幼い頃の夢なのだと、その存在を忘れ始めていた。
盟華院に入学するまでは。
入学試験をかつてない好成績でクリアし、入学式では新入生代表を務めた勇獅は、入学後ちょっとした有名人だった。
新入生代表を務めた壇上に上がった彼の銀糸の髪に堂々とした姿、噂になった入学試験の結果に進学クラスの紫のブレザーも手伝って、勇獅の行く所にはいつも囁くようなざわめきがついて回った。
元々騒がしいことがあまり好きではない勇獅は、何処へ行ってもついて回るざわめきと好奇の視線に流石にうんざりしていた。
(…たまには一人になりたい…)
そう思いながら裏庭へと向かっていたとき…。
『……』
「…っ!?」
不意に頭の中に聞こえた音に勇獅は驚いて足を止めた。
その場に立ち止まったまま耳を押さえる。
「……」
聴覚が覆われる感覚。
聞こえが悪くなるだけで、特に支障はない。
耳鳴りでないことを確認して耳から手を離すと、勇獅は辺りをゆっくりと見回した。
放課後の人気の少なくなった校舎から聞こえる僅かな人の声、夕方特有の僅かに冷えた風が木々を揺らす音。
他に奇妙な音は聞こえない。
「……気のせいか…」
耳を澄ませても聞こえるのは知った音だけで、先刻聞こえた音らしきものは聞こえない。
そのことに呟くと勇獅は再び歩みを始めた。
『……』
「っ!?なんだ?」
だが、再び聞こえる音に勇獅はまた足を止めた。
今度はさっきよりもはっきりと、頭の中に直接響くように聞こえる音。
鈴の音のような軽やかな音に混じって、咆哮のような雄々しく誇らしげな鳴き声。
日常の風景に不似合いなその音に、勇獅は思わず声を漏らす。
驚くほどの音なのに、何処か懐かしいような感覚に襲われる。
「…僕を、呼んでいる…?」
何故だかそう感じた。
そして、その思考に一瞬疑問が浮かぶ。
誰かの呼ぶ声が風に乗って聞こえてきたのではないか?
鈴の音も何かの偶然で一緒に聞こえてきただけではないか?
なら、咆哮は?
「…近くに動物園は……ないな」
周辺の地理を思い出して小さく呟くと、勇獅はため息をついた。
一度なら誤魔化せた。
だが、二度目は気のせいではない。
はっきりと聞こえた音に、勇獅はそっと目を閉じた。
耳を澄ませるように、気を落ち着けるように深呼吸を繰り返す。
『………』
「っ!」
(聞こえたっ)
今一度頭の中に響く音を確認すると、勇獅は踵を返して走り出した。
校舎裏を抜けて渡り廊下を駆け抜け、校舎から少し離れた大きな建物。
こんなに必死になって走ったのはいつ以来だろうか。
頭の片隅でそんなことを考える自分がいるのを感じながら、勇獅は音の根源を求めて走り続けた。
近づく度に聞こえる音が大きくなる。
それを頼りに勇獅がたどり着いた場所。
それは…。
「…はぁっ…はぁっ…ここは…」
僅かに上がる息を整えながら、勇獅は建物を見上げる。
校舎と同じくレトロな造りの大きな建物。
相当の蔵書を誇る図書館だった。
放課後だからか、それとも校舎から離れているからかここには殆ど人の姿がない。
呼吸を整えて扉に手をかけると簡単に開く。
古い建物の薄い扉を開け中に入ると、広い室内はしんと静まり返っていた。
一瞬使われていないのかと思うほどの静けさ。
だが、室内は綺麗に清掃されており、使われている雰囲気がある。
それに僅かに安堵して、勇獅はゆっくりと館内を歩いた。
足音にあわせて、古い木の床が軋む音が僅かに響く。
『………』
本棚の間を通り過ぎようとしたとき、また音が響いた。
それに足を止めて本棚の方を伺うと、他の本棚と違うものが見えた。
本棚と本棚の間から見えるの壁の中に見慣れぬものが混じる。
図書館の最奥の角。
他より数台本棚の少ない列があり、その奥に切り取られたように小部屋が作られていた。
『………』
その存在を認めると、不意にまた音がする。
音に導かれるように勇獅は小部屋へと足を向けた。
古びたこげ茶の木製の扉の前に大きな張り紙がされているその前に立つと、不意に音が止んだ。
しんと静まり返った館内には勇獅以外いないのか、彼が動く音しかしない。
勇獅を導くように聞こえていた音もほかに誰かいる気配もしない。
だが、そんなことも気にならないほど勇獅は小部屋の扉に釘付けになっていた。
否、正確には扉でなくその奥だ。
立ち尽くす勇獅の視線を浴びる扉は開く様子がない。
中に誰かいるような気配もしない。
それでも、勇獅の視線は扉から離れなかった。
「………」
先刻までの音が嘘のように静まり返った館内。
否、音は勇獅の頭の中に響いていたのだが、扉の前に立った途端消えた。
それはまるで獣が身を隠しているようにも思えて、勇獅は僅かに緊張する。
だが、不思議と恐れは無かった。
自然と扉に手が伸び、ノブに触れた瞬間…。
「っ!?」
目の前を覆い尽くす錆びた赤、真朱。
その瞬間、勇獅の記憶の中に夢の光景がフラッシュバックする。
幼い頃に夜毎見たあの夢。
暖かな日差しと柔らかな緑。
そして…。
傍らに感じる懐かしくも雄雄しい存在。
ノブから手を離すと、勇獅はその手を口元にやって一歩下がる。
「…!思い出した…」
いつの間にか忘れていた記憶に、勇獅は小さく呟いた。
幼い日、何度も見た酷く懐かしいイメージの夢。
一度と思い出すとどうして忘れていたのかさえ疑問に感じてくる。
あのときはその夢を見る事すら楽しみだったのに。
そう思いながら、勇獅は今一度資料室の扉を見つめる。
「…そこに、いるのかい?」
自然と零れたその声は、しっかりと資料室の中へと向けられていた。
そして、それから勇獅は毎日図書館に訪れていた。
定位置に座って人が完全にいなくなるまで本を読み耽る日が続いた。
あれ以来音が聞こえることは無かったが、勇獅にはどうしてもあの音が忘れられず3年になる今日まで通い続けていた。
鍵のかかったノブから手を離し、勇獅はブレザーのポケットに手を入れる。
ちゃり…っと音をたてて取り出したものは鍵。
盟華院一の天才。
常に学年トップの成績を収め、教師ですらもその理解力に舌をき、そう持て囃された勇獅に学院側からの自習室をとの提案があった。
その提案に、勇獅が要求したのは「図書館の資料室」だった。
手の中の小さな古びた鍵を見つめる。
ゆっくりと扉に手をかけ、鍵穴に鍵を差し込む。
鍵を回すと僅かに軋んだ音をさせて、施錠が解除された音。
そして、それと同時に勇獅の中に流れ込んでくるような記憶の映像と、勇獅を呼ぶようなあの音。
「……っ」
久しぶりに感じるその感覚に、勇獅は小さく息を飲んで目を閉じた。
一度深呼吸してからゆっくりと扉を開く。
燃え上がる炎を布にしたような真朱。
静かに、雄々しく脈打つ彼は、そこにいた。
その姿に驚き以上に、自然と笑み漏れるのを勇獅は抑えられなかった。
「…僕を呼んでいたのは、君かい?」
「………」
真朱の鬣に精悍なその姿は、まさに獅子。
「君の名前は?」
「…我は、炎の憑神…火侠」
その名を名乗る声は、勇獅を呼んでいたあの音に混じった彷徨と同じ声。
勇獅は懐かしそうな笑みを溢した。
「…やっと、会えたね」
こうして、僕の世界に2度目の真朱が現れた。
雄々しく、静かな温もりと共に…。
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