刺すように降る雨。
その日、僕の時間は止まった。


「征一郎、志望校はもう決まったのか?」

普段息子の事など全く気にもしない父親が尋ねてくるのに、胡西は一瞬箸を動かす手が止まった。
朝の食卓には和風の見本と言えよう朝食が並べられ、席に着いている息子と食卓のテーブルの横でネクタイを結ぶ父親の姿。
それだけならなんの変哲もない朝の風景だった。
違うのは、食卓に置かれたのは一人分の食事と、母親の姿がないこと。
だが、二人はそんなことには気にも留めず会話を進める。

「…はい、盟華院に決めました」
「盟華院?」

胡西の言葉に父親はネクタイを結んでいた手を止めて復唱する。
それに胡西は止まったままの箸を動かすことが出来ずにいた。

「……」

暫しの沈黙。
それを破ったのは父親のほうだった。

「あそこは財界人の子供も多いことで有名だったな。学力も…まぁ上は悪くない。いいだろう」
「…ありがとうございます」

父親の言葉に、胡西は内心で安堵して出て行く父親に頭を下げた。
ここで反対されては元も子もない。
胡西にはなんとしても盟華院に行かねばならない理由があったのだ。
パタン、とダイニングの扉が閉まる音がするまで、胡西は頭を下げたまま止まっていた。

「……」

廊下を歩く足音が遠くなっていく。
完全に聞こえなくなるのを待って、胡西は顔を上げた。
空ろなモノクロの記憶の中に残った面影。
変わったデザインの制服は良く目立ち、すぐにどこの学校か知ることが出来た。
お誂え向きにも、父親の好みそうな人種の揃った学校だ。

資料を取り寄せた胡西は内心でほくそ笑んだ。

記憶を頼りに見つけるにはあまりにも手がかりが少なすぎて、正直なところ不可能かと思っていた。
だが、唯一の手がかりと思われた目立つその制服は、唯一どころか胡西に朗報を運んできたのだ。

運は自分に向いている。

胡西はそう思った。

「…ごちそうさま」

全てを控えめに揃えられた朝食を食べ終え箸を置くと、数名いる家政婦の一人がテーブルの横で小さく会釈をする。

「今日も美味しかったです。ありがとう」

胡西が笑顔を向けると、家政婦も笑顔で頷き礼を返した。
それを見てから、胡西は鞄を持って立ち上がりダイニングを出る。
パタン、と扉を閉めるとダイニングで食器を片付ける音が聞こえてくる。

無言の作業。
ここの家政婦は殆どの作業を無言で行う。
家主とは必要なこと以外の会話はせず、家政婦同士でも殆ど会話をしているのを胡西は見たことがなかった。

中堅代議士の家に出入りする家政婦なら当然のことなのだろう。
だが、元々この家で会話など殆ど存在しない。
例え血の繋がった家族であっても、挨拶や必要なこと以外で会話をすることなどないのだ。

理由はなんだったろうか。

それすらも解らぬほど、寧ろないことが当然なのだと胡西は思うようにまでなっていた。
故に、先刻の父親からの言葉は少々驚きでもあった。
だが、考えてみれば当然の質問だ。
中堅議員の一人息子が名も知れない学校に進学するなどあってはならない。
結局は息子のことより、自分の評判のほうが気になるのだ。

鞄を手にし玄関で靴を履き立ち上がると、備え付けの鏡の前に立つ。
きっちりと着込んだ黒い学生服はクリーニング仕立てのように埃一つない。
議員の息子たるもの常に精錬潔白であれ。
その現れのように大袈裟なほど整えられた身なりに、胡西は心中で悪態ついた。

(よく言う…)

どの口がそれを言うのか。

胡西は父親の言葉を耳にする度にそう思っていた。
巧妙な手管を使い、犯罪スレスレな方法で他の議員を蹴落としその地位を守っている父親。
それの何処が清廉潔白だというのか。
子供特有の思考だと言い切ってしまえばそうかもしれない。
だが、そうだとしても胡西には納得できないものだった。

そして、それ以上にそのことを間違っていると指摘できない自分も腹立たしかった。

玄関を開けると穏やかな朝日に自然と目を細める。
気分にそぐわない晴天。
思えば、もうずっと気分とは裏腹な太陽を浴びている。
胡西の時間は、ずっとある雨の日で止まったままだった。

月日は流れ、中学を卒業した胡西は当初の志望通り、盟華院に入学した。

真新しい制服に袖を通して、玄関の姿見の前で身なりを確認する。

夢にまで見た制服だ。
忘れようとしても忘れられない、否、忘れるはずがない。
ある意味狂気にも似た執着を持っていた制服。
それに今自分が身を包んでいる。

胡西は僅かに口の端を上げて笑みを零した。
とりあえず、一つ目の条件はクリアした。
盟華院に入学する。
これをクリアしたのとしないのとでは、今後の生活に大きく違いが出てくるのだ。

試験は至極簡単だった。
目立たぬように平均合格点を目指し、適当に誤った答えを記入してその他大勢と同じ位置で合格する。
トップを目指すこともできたが、胡西は目立つことを極力避けた。
父親には「議員の息子が目立ちすぎても回りに失礼だ」と簡単に説明しておいた。
外面を気にする父親もそれには納得したようで、それ以上は強く求めなかった。

目立つ行動をして自分が見つかってしまっては元も子もない。

「……いってきます」

見送りなどいない玄関で小さく呟いて、胡西は扉を開けて家を出て行った。


暖かい柔らかな日差しと、優しい色合いの桜。
新しい門出を祝うのに相応しい晴れやかな陽気。
行き交う近所の人が入学の祝いを述べるのににこやかに返しながら、胡西はそれとは全く別のことを考えていた。

校門を抜けたら、真っ先に各校舎の見取りを確認する。
放課後は見取りを元に3年の教室を見て回る。
あの日からずっと張り付いている、モノクロの記憶の面影。

それを頼りに見つけ出すには微か過ぎる手がかりだが、胡西にはなんとしても見つける覚悟があった。

そうでなくては盟華院に入学した意味がないのだから。

同じデザインの制服を着た生徒の姿が多くなると、前方に大正時代に建てられたのだという校舎が見えて来た。

3年間を過ごす学び舎。
希望に満ち溢れた若者の中で、胡西だけは違う感情を抱いてその校舎を目指した。
校門の前で一度立ち止まると、在校生が新入生の胸にリボンを飾っている。
それに応じて作った笑顔で礼を言うと、胡西はまた歩みを始めた。
真新しい制服とは対照的な古い校門を潜って、学校の敷地内に足を踏み入れる。

踏み入れた右足が地に付いた、その瞬間だった。

『……』

「!?」

突然聞こえた音に胡西は驚愕してその場で固まる。

耳ではなく、頭の中に滑り込んできた鈴の音と、聞いたこともないような何かの鳴き声のようなもの。
思わず胡西は驚愕の表情のまま周りを見渡した。
何処を見ても特に変わった様子はない。
自分がこれほど驚いているのに他の生徒は驚いた様子すらない。

(僕だけに…聞こえたのか?)

そう思えるほどの平穏さだった。
だが、胡西に聞こえた音は現実離れしていて、あまりにも衝撃的すぎて気のせいで済ませられない。
だが、そこに立っているわけにも行かず、胡西は確かめるように左足を動かした。

地に付いた右足を通り越して、左足を一歩前に踏み出す。

『………』

「っ!」

まただ。
一歩踏み出す度に胡西の頭の中に奇妙な音が響く。

(なんなんだ?一体…っ)

自分とは裏腹に平穏な周囲に、一瞬混乱しそうな思考が繋ぎ止められる。
だが、突然の怪奇に、胡西の鼓動は早くなっていて、それを押さえるように彼は僅かに汗ばむ手をぎゅっと握った。

これは、これから自分がしようとしていることへの警鐘だろうか?

一瞬、そんな思いが脳裏を過ぎる。
そんな自分に気づいて、胡西は首を横に振った。

(駄目だ!)

たとえこれが警鐘だったとしても、諦めるわけにはいかない。
胡西は音を無視して歩き出した。

だが。

『……』

「…っ」

『……』

地を踏みしめる度に音が聞こえる。
聴覚ではなく頭の中で聞こえる音は、いつの間にか胡西の感覚を鈍らせた。
そして…

「……ここ、は…?」

気が付くと、胡西は見知らぬ森に立っていた。
遠くから鐘の音が聞こえる。
振り返ると少し離れたところに校舎が見える。

「いつの間にこんなところに来てしまったんだろう…」

ここに来るまでの記憶のない胡西が、そう呟きながら踵を返したときだった。

『………』

「っ!?」

先刻よりも一層大きな音が直接脳内に叩き込まれるように聞こえたと思った瞬間、胡西の視界が霞むほどの眩暈がした。
それに目をきつく閉じると、不意に頬に当たる風が変わった。

「…な、に…?…っ?!」

その感覚に眩暈をやり過ごした目を開くと、視界に広がる光景に驚愕して目を見開く。
一面の岩場。
先刻までは森だったはずなのに、そんな面影など見る影もなく黄砂すら舞う岩場が広がっていた。

「なんだ、ここは?!どうして?!」

『…主…』

驚愕のままうろたえる胡西に、またあの音が聞こえた。
だが、今度は鈴に混じって聞こえてきたのは、鳴き声ではなく人の声。
「誰だ!?何処にいるんだ?!」

思わずそう叫んだ胡西の目の前で砂嵐が起きる。
小さな砂の竜巻が現れ、胡西の目の前で終息していく。
その中から現れたのは、随分と古い形の黄土色の太刀。

そして…

「っ?!」

靡く青丹色の髪に細身の長身。
太刀は青年の姿に代わり、こう口を開いた。

「我は地の憑神、那地。主を守りその望みを叶える僕」

「しも、べ…?」

青年、那地は胡西の呟きにゆっくりと頷く。

「…主の望み、我が力を持って叶えよう」
「……僕の、望み…」

胡西の前に跪く那地を見下ろしながら、胡西は僅かに擦れた声で呟く。

「…その言葉に、偽りはない?」
「ない。主の命に従うのが、我だ」
「…ふ…はははは…僕の、僕…ははは」

胡西は那地を見下ろしながら声を上げて笑い出した。
その表情は何処か狂気じみていたかもしれない。

そんな胡西を見上げながら、那地はゆっくりと頭を垂れた。


刺すように降る雨。
あの雨の日に止まったままだったモノクロの僕の時間は、鮮やかな青丹によって動き出した。

僕が手にしたものは力。


神は僕に味方したんだ。


青丹の「神」と言う名の「僕」…。


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