目の前に広がる翡翠色。
優しい手触りのそれは、俺の興味を引くには充分だった。


「東原君!」

授業の終わりと同時に教室に響く黄色い声。
すでに日常茶飯事か、教師も他の生徒も気にすることはなく各々のことをしている。
そんな中、一際背の高い青年が立ち上がり、扉に前で手を振る声の主に近寄っていく。

「先輩、早いねぇ。授業は?」

声をかけると女子生徒は笑顔で青年を見上げた。

「そんなの、東原君に会いたくてサボっちゃった」
臆面なくそう述べる女子生徒に、青年、否、東原霧矢はくすりと笑みを漏らす。

「あーらら、悪い子だねぇ」
言葉とは裏腹にさほど咎めるような表情もせず、霧矢は女子生徒の肩を抱いて教室を出ようとする。
すると、廊下から声が霧矢を呼び止めた。

「ちょっと!霧!」

その声に霧矢は僅かに眉を寄せて振り返る。
もちろん女子生徒の肩を抱いたままだ。

「なによ?姫」

廊下を走ってくる小柄な少年、北条姫定に目をやると霧矢はさも迷惑そうな顔で微笑む。
その器用な笑顔に姫定は足を止めた。
それを見ると、霧矢は笑みを満足そうに変える。

「今日はそっち帰らないから、いい子にしてな」

そう言うと、霧矢は女子生徒の肩を抱いたままひらひらと手を振って帰っていく。

「…………」

霧矢の後ろ姿を見送りながら、姫定は憮然として呟いた。

「……あの、人でなし」


霧矢と姫定は中学時代からの友人、いわば親友のようなものだった。
関係は腐れ縁。
お互い殆ど一人暮らしのような状態で、昔から霧矢は姫定の世話を焼いていた。
2年に上がるまでは。
2年に上がった頃、霧矢はぱったりと姫定の世話を止めた。
それに姫定は随分とご立腹なのだが、学校では猫を被っている為、それを強く責められなかった。
姫定が学校で強気に出られないのをいいことに、霧矢はそれまで毎日通っていた姫定の部屋を避け、言い寄ってくる女子生徒と遊び歩いている。

「それでね、先生ったら?」
「うん、それで?」

隣で可愛い声を上げて話す女子生徒の肩を抱いて話を聞くフリをする。
そう、フリだ。
本当は霧矢は話など聞いていなかった。
隣で誰が何を話そうが、霧矢の耳には殆ど入っていない。
否、耳ではなく思考だ。
2年に上がった頃から、霧矢の思考をあるものが占領していた。

『……』

それは、何かの音。
鈴の音と共に、人の声のような、何かの鳴き声のような……。
直接聴覚を刺激するのではなく、頭に浮かぶように思考の中に滑り込んでくるその音に、霧矢は悩まされていた。

(いっそ気でも狂えば楽かな?)

そう思うものの、それほど不快ではないそれと、それほど弱くない霧矢の精神はそれを許してくれない。


ある日、不意に感じた違和感は自覚した途端に無視できなくなった。
それを紛らわせるように、霧矢はあちこちで女子生徒に手を出している。
元々女の子は好きだし、見てくれだって悪くない。
加えて口も上手い聞き上手となれば、霧矢の方だけでなく、女子生徒の方も放っておかなかった。
男なら願ってもない状況。
それをいいことに霧矢は毎日違う女子生徒を連れていた。
羨ましがる者、疎ましがる者、羨望、嫉妬。
その眼差しを受けながらも、霧矢は平然と過ごしていた。
表向きは。
内心では、思考を支配しつつある不可思議な音にいらだっている。

『………………』

「聞いてるの?東原君?」

一瞬、思考が音に捕らわれ隣の少女から意識が離れた。
それをすかさず指摘される。

「お、あぁ、聞いてる聞いてる」

肩を抱き寄せて笑みで霧矢は答えた。
もちろん作り笑いだ。
女という生物は敏感だ。
隣の男が一瞬自分から意識が離れたことをすぐに感じ取る。
普段なら煩わしく思うその指摘も、今の霧矢にはありがたいものだった。
飛びかけた意識を戻してくれる。
現実と思考の狭間を彷徨うような感覚は、心地よいような、それでいて酷く不安に駆られる。
何かを得る代わりに何かを失うような。
その感覚に身を委ねると必ずそうなるような気がして、霧矢は現実と自分を繋ぎ止める為の楔に女を選んだ。
遊んでいるときだけは、その音を忘れることが出来たから。

「じゃあまたね、送ってくれてありがと」
「あぁ、また」

日も落ちた頃、霧矢は必ず女子生徒を家まで送り届けて帰路につく。
面倒と言われ様と、誘った女を家まで送り届ける。
それだけは絶対に怠らなかった。
人はそれを紳士的と言うかもしれない。
だが、理由は他にあった。

「…………」

出来るだけ一人になりたくない。
一人になると必ず聞こえる、あの音。
自分の存在を思い出させるように響く音は、夜になると何処か悲しげな音に聞こえた。

「さぁて……」

今日もお決まりのように聞こえる音に若干眉を顰め、霧矢は踵を返して歩き出した。
薄暗くなった夜道を緩い足取りで歩く。
繁華街を抜けて住宅地を横切り、マンションの一室の前にたどり着く。
表札には「北条」
制服の上着を探って鍵を取り出すと、勝手知ったる手つきで玄関の鍵を開ける。
時間は深夜を少し回ったところだ。
足音を忍ばせて照明の消えた室内に入ると、迷わず寝室に向かった。
間接照明のオレンジの光が漏れる扉を少しだけ開けると、ベッドで寝息を立てる姫定が見えた。
(……今日もちゃんと寝てるな)
規則正しい呼吸をする姫定に、霧矢はほっと安堵の息をつく。
すると……。

『………………』

「っ!」

いつもより大きく響く音。
それに一瞬驚いて半歩退く。

「……またかよ……」

霧矢は苦々しげに小さな声で呟いた。
姫定に寄るといつもこうだ。
一瞬の間をおいて、音がいつもより大きくなる。
まるで何かを呼ぶように。
それに気づいてから霧矢は姫定との接触を出来るだけ断った。
音が大きくなると現実から離れる距離も大きくなるような気がする。
霧矢が姫定の世話をしなくなったのは、このせいだった。
だが、腐れ縁とは恐ろしいもので、どうしても気になって霧矢は毎夜姫定が寝ていることを確認しに来ていた。
そっと、物音を立てないように寝室を出てリビングのソファーに座る。
音が大きくなる一瞬、記憶の中に直接投げ込まれる微かな光景。
目の前に広がる翡翠色。
それが何なのか霧矢には解らなかった。
自分の知っている記憶の中にはない色。

「…………なんなんだか、一体」

霧矢はわざとどうでもいいことのように呟いた。

「………………」

霧矢の声が消えるとしんと静まり返った静寂が広がる。
静かな時ほど意識する音は不思議と聞こえなかった。
時計を見て、霧矢は立ち上がり部屋を出て行った。

陽は高く昇り、暖かい日差しが降り注ぐ。
中庭で昨日の女子生徒と昼食を取っていた霧矢は、その眩しさに目を細めた。
気持ちいいくらいの快晴は、寝不足の視界には少々酷な光だ。
昨夜、姫定の部屋で呟いてから、急に音はしなくなった。
気のせいだった、なんてもので済ませられないそれが急に無くなると、そのほうが気になって仕方がない。

「ね、さぼっちゃおうよ」

昼食を済ませて、耳元に囁いてくる少女の声。
それに霧矢は唇だけでにやっと笑った。

「あれ?」

2階の廊下を歩きながら、姫定は窓から見えた人影に首を傾げる。
女子生徒と一緒に校舎の影に消えていく霧矢の姿。
間も無く始業時間だというのに何処に行くのか。
そう思った姫定は少し考えて階段を早足で下りて行き、二人を追った。

「ここでいいじゃん」
「見つかんないかな?」
「見つかってもいいしー」
「先輩は良くても俺は困るよ、まだここにいなきゃなんないのに」

人気のない校舎の影でくすくすと笑いながら女子生徒は霧矢の首に腕を絡ませる。
その細い腰を抱き寄せながら、霧矢は彼女の首元に顔を埋めた。
長い髪から香る甘い香り。
腕の中にすっぽりと納まる柔らかい体。
力を入れると折れてしまいそうな細い腰。
唇を這わせる度に震える肌と甘い声。
その全てが霧矢に現実を忘れさせる。
あれほど求めていた現実を、安心して手放せる唯一の瞬間。
それを堪能しようと、ウエストを緩めてズボンのファスナーを下ろした時だった。

「っ!?」
「霧!?」
「きゃあ!?」

不意に、本当に何の前触れもなく突然竜巻が起こった。
自然的にありえない状況。
丁度追いついた姫定が二人の姿を見つけ口を開いた瞬間、竜巻は霧矢の身体を掬い上げる。
本当に、一瞬の出来事だった。
目を覆うほどの竜巻が起こり、すぐにそれが治まるとその場に残されたのは姫定と気絶した女子生徒だけだった。

「………………な、なんだよ、これ……」

呆然と姫定はその場に立ち尽くして呟いた。
霧矢は竜巻に攫われたのだった。


「……ん……」

ひんやりと肌に纏わりつく空気に、霧矢は目を覚ました。
僅かに痛む頭を押さえて身を起こす。

「……俺、どうしたんだっけ?」

思い出されるのは快楽に身を任せようとしていた己の状況。
それを思い出すと、残念そうに乱れた前髪をかき上げる。

「あー……食い損ねた……って、なんだよ、ここ?」

前髪をかき上げて開けた視界に見えたのは木々に囲まれた祠だった。
童話や昔話にでも出てきそうな、鬱蒼とした森の中にぽっかりと穴が開いたようなところに置かれた祠に目をやると、信じられない事態が生じる。

「っ!?」

霧矢の視線が祠の扉を捕らえた途端、バタンっ!と音を立てて勢い良く扉が開いた。

「…………っ」

霧矢の視界いっぱいに広がる翡翠色。
(……これ……)
ふわりと羽ばたくそれは、霧矢の目の前に優雅な姿で降り立った。
見たこともないような翡翠色の羽の鳥。
澄んだ色の瞳が真っ直ぐに霧矢を見つめた。

「……お待ちしておりました。主様」
「!」

鳥の発した声が霧矢の脳で何かと混ざる。
鈴の音に混じって聞こえる、涼やかで落ち着いた声音。
今まで霧矢を悩ませていたあの音だ。

「……俺を呼んでたのは、お前?」

音の正体を理解した瞬間、霧矢は鳥にそう問いかけていた。
不思議と畏怖はない。
驚きよりも、霧矢の目はその艶やかな姿に捕らわれる。

「私は風の憑神、風花」

無意識に差し出した腕に翼を羽ばたかせふわりと止まるその姿は、まるで御伽噺の神鳥のようで……。
鮮やかな色の柔らかい質感。
今まで感じたことのない充実感のような安心感。

「貴方を守り、貴方と共に在ることを定められた者です」


傍らに憑き従う鮮やかな翡翠色。
優しい手触りと、美しい瞳のそれは、俺の興味を引くには充分だった。


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