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一人の家、一人の時間、一人の食事
もう慣れたはずの静寂を再確認した時
それはひどく痛かった
勿忘草色の君が来るまでは…
終業のチャイムと共に少年、北条姫定は小走りで教室を出た。
まだ窓から射す太陽の光がミルクティーブラウンの髪に反射してキラキラと輝く。
けして全力ではなく、それでも出来る限り急いで。
目指すのは2つ離れた親友の教室。
目的の教室を視界に捉えたところで、丁度教室から出てくる目当ての人物の姿が見えた。
「ちょっと!霧!」
姫定は思わずその名を呼ぶ。だが…
「………」
返って来たのは奇妙に器用な笑みと沈黙。
それを見るなり、姫定はぴたっと足を止めた。
名を呼んだ霧、東原霧矢とは随分と深い付き合いだ。
彼がこんな表情をするときは「何か用か?」と無言で問いかけている時だ。
姫定が立ち止まると、霧矢は満足そうに笑って女子生徒の肩を抱き、帰っていく。
2人の後姿を見ながら、姫定は文句を言ってやりたい気持ちをぐっと堪えた。
霧矢とは中学からの付き合いで、お互い共働きの両親を持ち家もさほど遠くないことから、自然と二人でいるのが多くなった。
両親が甘やかしたせいか、殆ど一人暮らし状態だというのに家事が全く出来ない姫定。
両親が留守がちなことで、料理、洗濯、掃除などを一通りこなせる霧矢。
我侭で何一つ満足に出来ない姫定を放っておけず、構い出したのが二人の始まりだ。
それ以来姫定の大概の面倒は霧矢が見てきた。
盟華院に入学し、2年に上がるまでは。
中学を卒業し、同じ盟華院に入学していつもと同じ日常を繰り返していたある日、霧矢はぱったりと姫定の世話を辞めた。
何の前触れもなく、ある日突然家に訪れなくなった霧矢に姫定は大層ご立腹だ。
何しろ中学から霧矢に頼りっぱなしの姫定は、霧矢がいないと食事も出来ない有様なのだから、一言文句でも言ってやらないと気が済まない。
愛らしい見た目とは裏腹に、姫定はなかなか豪気な気質の持ち主だった。
だが、霧矢を追っているのは、それだけが理由ではない。姫定には一つ迷っていることがあった。
何かを選択することを迷っているのではなく、未だ霧矢に言うことすら迷っていること…
『…ヒメ…』
時折、ふとした瞬間に聞こえる自分を呼ぶ声。
あまりに微かで聞き逃して仕舞いそうだが、姫定を呼んでいるような気がする。
否、確かに姫定を呼んでいる。
何故だか理由は解らないが、姫定にはそれが確信できた。
小さな子供が何かを探すような、求めるようなそんな声。
姫定はそれが気になって仕方がなかった。
(…知らない声が聞こえるなんて…)
普通に考えれば有り得ない。
誰に言っても信じてもらえないだろう。
それどころか最悪の場合、変人扱いだ。
そんなことになったら冗談じゃない。
「姫くん?どうしたの?」
霧矢の去って行った方向をじっと見ていると、不意に背後から女子生徒が声をかけてきた。
「ううん、なんでもないよ」
その声に振り返りながら姫定は女子生徒に満面の笑みを見せた。
幼さの残る顔に柔らかく明るい笑み。
先刻までの豪気な考えが嘘のような、愛らしく友好的な笑みに女子生徒の表情が和らぐ。
「良かった、何だが寂しそうだったから」
「うーん…霧に置いてかれちゃって」
少し寂しそうな笑みをすると、女子生徒は姫定に釣られるように悲しげな表情をする。
「え?可哀想ー、私でよかったら、一緒に帰ろう?」
「あ!私もいるよ、だから泣かないで?」
姫定の寂しそうな表情を目撃した女子生徒、否、女子生徒だけでなく男子生徒までが姫定を労るように集まってくる。
「姫を置いてくなんて、酷いな…」
「全くだ、大体アイツは女にいい顔して…」
「よければ俺が一緒に…」
「ううん、大丈夫だよ。霧はきっと用事があったんだと思うから」
口々に霧矢を非難しようとする男子生徒に姫定はにっこりと笑った。
その笑顔に周りに集まっていた生徒達の表情が緩む。
「僕ちょっと用事があるから行くね?皆心配してくれてありがとう」
笑顔でそう言うと姫定は生徒達に手を振って屋上の方へと去って行った。
残された生徒達はというと…。
「姫くんって本当に優しいし可愛いわよね」
「ホント、彼が怒ってるところなんて見たことないわ」
「きっと育ちがいいんだろうな」
などと、姫定を賞賛する言葉を述べていた。
廊下に取り巻きのような生徒達を残して屋上へ向かった姫定は、階段を上がると鉄製の重い扉を押し開く。
未だ陽の高い時間で、屋上には明るい光が降り注いでいた。
「ったく、霧の奴っ…」
姫定は苛立ったような声で呟きながら屋上に出た。
ずかずかと歩きながら姫定は表情にまで苛立ちを露にして手摺に手を付いた。
先刻までのにこやかな笑みも柔らかい雰囲気も一切なく、ただ苛々と爪を噛む姫定。
生徒達に見せていた彼とは大違いだ。
「この僕をいつまで放置するつもりなんだ」
絶対に文句を言ってやる。
姫定はずっとそう考えているのだが、霧矢が家に来ないと学校でしか彼に会うことはない。
だが、姫定は学校で大っぴらに文句を言うことができない。
何故なら。
「学校で文句なんて言ったら、ここまでしてきた苦労が水の泡だよ…っ」
苛立ちのまま姫定は親指の爪を噛んで呟いた。
そう、姫定は学校で猫を被っているのだ。
それも大層大きな猫で、盟華院に入学してから姫定の本性、つまり今の姫定を知るものは霧矢以外に誰もいない。
それには少々奇妙な理由があった。
『北条姫定』
何処かの武将のようなその名は、母親の「愛らしく優しい子に」との願いと、父親の「武将のように強く真っ直ぐな子に」との思いからつけられた。
だが、そんな両親の愛の篭った名は姫定の見た目には似つかわしくなく、それを理由に度々クラスメイトにからかわれることがあった。
幼い頃は彼のその気性故に強く反論したのだが、ある時それが面白くてからかわれるのだと気づいたときから反論することを止めた。
反論する代わりに、姫定はにっこりと笑って見せた。
それはもう、極上の微笑みで。
そのときから姫定をからかっていた者は消え、代わりに賞賛する者が傍に集まった。
だが、元々気性の荒い姫定がその笑みを振りまき続けるのは、正直無理があった。
それを苦労して、我慢して続けているのは、そのほうが諍いが起きないから。
いくら気性が荒かろうが、諍いを好む者はいない。
それに笑っていれば周りは親切だった。
そのことに気づいてから、姫定は猫を被るようになったのだ。
気性の荒い姫定がそこまで苦労して手に入れた平穏を、霧矢のために壊したくない。
そう考えるが、文句を言えないことが歯痒く、益々苛々した。
そして、ここにも苛々する原因がもう一つ…。
『…ヒメ…』
「っ…」
不意に頭の中に響いた呼び声。
姫定が苛立つのを宥めるように聞こえてくる。
その声に姫定は手摺に身を預けて耳を澄ませた。
水の流れるような音に混じって聞こえる鈴の音。
何処から聞こえてくるのかも解らないその音は、酷く懐かしい感じがした。
優しいその音を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
暫くの間、目を閉じてその音に身を委ねていた姫定は、小さくため息をついて身を起こすと屋上を降りていった。
「…ただいま…」
自宅のマンションの扉を開けると、姫定は小さな声で呟いた。
だが、返って来る声もなければ部屋は暗いままだ。
何の反応もない部屋に入ると、ソファーに鞄を置いてキッチンへ向かう。
まだ夕方の光が差し込む室内は、姫定以外は生活していないような印象だ。
実際、姫定の両親は彼が盟華院に入学した頃、揃って海外へと転勤になっており、一人日本に残った姫定はこの部屋で一人で生活していた。
否、本当に毎日一人になったのは、霧矢が来なくなってからだ。
それまでは毎日霧矢が何かと世話を焼きに来ていて、一人でいる時間は少なく、それなりに煩い部屋だった。
冷蔵庫を開けるとヨーグルトを取り出す。
それを手にしてリビングに戻ると、ソファーに座って蓋を開けヨーグルトにスプーンを入れる。
室内にはプラスチックの容器にステンレスのスプーンが当たる微かな音だけが響く。
苺入りのピンク色のヨーグルトを口にすると、僅かに甘さを感じた後に酷く酸っぱさが口に広がった。
それを喉を鳴らして飲み込むと、姫定はソファーに膝を抱えて座る。
喉の通りのよいものだというのに、何処か飲み込み辛い感覚。
抱えた膝に顎を置くと、ヨーグルトを持った手がだらりと落ちた。
耳に流れ込む静寂。
「……痛い……」
小さく呟くと、食べかけのヨーグルトとスプーンを置いて、姫定はリビングを出た。
陽は完全に落ち、夜の時間。
リビングのテーブルには、夕方に食べかけのまま残されたヨーグルトの容器が置かれたままだ。
姫定が動く以外に音が発生しない部屋には、時計がときを刻む僅かな音だけが響いていた。
間接照明だけを点けた寝室のベッドで布団に潜り込んだ姫定は、いつまでも訪れない眠気に寝返りを打った。
枕元に置いた携帯に手を伸ばして時間を確認する。
もうすぐ、時間だ。
そう思ったとき、微かに玄関の扉が開く音がした。
足音を忍ばせて寝室に近づいてくる気配に、姫定は不自然でない程度に呼吸を整えて目を閉じる。
それとほぼ同時に寝室の扉が少しだけ開いた。
オレンジ色の間接照明の光が扉の外へ漏れる。
「………」
姫定の耳に安堵のため息が聞こえる。
「っ!…またかよ…」
苦々しげに呟かれる小さな声。
その後、音を立てないように離れていく気配に、姫定は目を開いた。
今、日本でこの部屋の鍵を持っているのは、姫定と管理人と霧矢だけ。
姫定の世話を焼かなくなっても、霧矢は毎晩様子を見に訪れていた。
最初はその時に文句を言ってやろうと思っていた姫定だったが、霧矢の異変に気づいてから狸寝入りをすることに決めた。
『またかよ…』
何かに驚いた気配の後、そう呟かれる言葉。
霧矢は何かを隠している。
そう姫定は確信していた。
だが、それを問い詰めることができずにいた。
それは、自分にも隠していることがあるから。
『…ヒメ…』
頭の中に聞こえる自分を呼ぶ声。
水の音と共に聞こえるその声に誘われるように姫定は目を閉じた。
暖かい日差しの降り注ぐ教室で、姫定は数人の取り巻きに囲まれて昼食を取っていた。
1年までは昼食は霧矢と共に、霧矢の作った弁当を食べる。
それが当たり前だった姫定には購買部のパンは少々味気ない。
わいわいと騒がしい教室も、本当はあまり好きではなかった。
猫を被り続けるというのはなかなか疲れるもので、教室に居続けると気の休まる隙がない。
(…頭いた…)
笑顔で取り巻き達の話を聞きながら、内心でそう感じた姫定は軽く謝罪して席を立った。
教室を出て屋上に向かって廊下を歩きながら、何気なく窓へと視線をやる。
すると…
「あれ?」
窓から見下ろした視線の先には、女子生徒と一緒に校舎の影に消えていく霧矢の姿。
間も無く始業時間だというのに何処に行くのか。
そう思った姫定は少し考えて階段を早足で下りて行き、二人を追った。
人気のない所なら文句の一つも言えるかもしれない。
その時はそんな安易な考えだった。
階段を下りて二人が向かった校舎を目指す。
途中始業を知らせる鐘が鳴ったのが聞こえたが、姫定はそれを無視した。
教師の目につかないようにしながら、足を進めていくと不思議な感覚に気づく。
何か、急がなければいけないような気がした。
その気持ちに後押しされるように、姫定の足は早足から駆け足になって、二人が消えた校舎の角を曲がった瞬間だった。
「っ!?」
「霧!?」
「きゃあ!?」
思わす叫んだ姫定が見たのは、竜巻に攫われる霧矢の姿だった。
一瞬の出来事。
「………な、なんだよ、これ…」
人を攫うほどの強い竜巻が起る。
治まったその場に残された姫定は一瞬呆然として呟いた。
「って、攫われた?!」
だが、はっと我に帰ると、気絶している女子生徒を放置して、竜巻が消えた方向、プールの方へと走って行った。
あまりに突然のことで見失った霧矢を探して、姫定は辺りを見回しながら走る。
霧矢たちを追う途中、妙に急がなくてはならないと思ったのは、きっとこの竜巻を予感していたんだろう。
そう思いながら、姫定は校舎から離れたプールにたどり着く。
殆ど遮るものはなく、見通しのいいプールになど居るとは思えず素通りしようとした瞬間…
『…ヒメ…っ』
「っ!?」
不意に頭の中に声が響いた。
いつもの呼び声と違い、通り過ぎる姫定を引き止めるように強い声。
訝しげな表情をしながら、それに引き寄せられるように姫定はプールの敷地内に入る。
先日掃除をしたばかりのプールは、日光を浴びてきらきらと輝いていた。
「…誰か、いるの?」
そう声をかけながらプールサイドを歩き、辺りを見回す。
だが、人の気配など少しも感じないプールは静かだった。
「…気のせい…かな」
誰もいないプールで小さくため息をついて去ろうとしたときだった。
「うわっ!」
人工芝に足を取られてよろけた瞬間、姫定の叫び声と共にプールに大きな水飛沫が上がる。
(…っ…落ちたっ?!)
急に滲んだ視界と、水が体を包む感触に姫定は瞬時にそう感じた。
突然のことに対処が遅れた上に、制服が水を含んで重くなり思うように動けない。
息継ぎなど出来なく、呼吸が苦しくなってくる。
(…ヤバイっ!溺れるっ…)
そう思った瞬間だった。
「っ!?」
不思議と体が軽くなり、ゆっくりと浮上する感覚。
誰かが引き上げたわけでも、助けに入ったわけでもない。
何もしていないのに姫定の体は水面近くまで浮き上がっていく。
そのまま姫定は水面から顔を出して酸素を貪った。
「…っはっ…はぁっ…はぁっ…」
「大丈夫?」
「うん…平気」
「よかった!」
荒い呼吸を繰り返しながら問われる声に頷くと、姫定は妙な違和感に気づいた。
確か、一人だったはずだ。
なのに誰と話しているのだろう?
そして、いつの間にか胸に抱いている柔らかい感触。
柔らかく、何処か懐かしいような抱き心地と、聞いたことのあるような声。
呼吸を整えた姫定は腕の中のそれに目をやり、そして目を丸くした。
「……お前、何?」
抱いているのはベビーブルーの猫。
否、正確には猫のような生物、というのが正しいだろう。
姫定の問いに猫は嬉しそうに笑った。
「水無月、水の憑神なの」
「ツキ、ガミ?」
「うん、ヒメ、ずっと会いたかった!」
嬉しそうに擦り寄ってくる猫、否、水無月の声は頭に響いていた姫定を呼ぶ声と同じ声で、姫定はじっと水無月を見詰める。
「…僕を、ずっと呼んでたのは、お前?」
「うん!ヒメ、ミナを見つけてくれた。約束守ってくれたから、会いに来ちゃった」
「約束?」
「ミナはずっとヒメと一緒にいるよ」
姫定の問いかけに明るい声で頷く水無月に、姫定は自分の口元が綻ぶのに気づかなかった。
『ずっと一緒』
その言葉が酷く嬉しい。
一人の家は一人と一匹の家になり
一人の時間は一人と一匹の時間になり
一人の食事は一人と一匹の食事になり
勿忘草色の小さな神様は、僕の嫌いな静寂を消し去ってくれる気がした。
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