岐路 —東京殺人鬼—
渋谷・スクランブル交差点。午後5時。
……今日も人が溢れるほどにいっぱいだ。
椿五十鈴は渋谷のスクランブル交差点に面した商業ビルの2階から、新発売のオレンジフラペチーノを飲みながらガラス越しに眼下の光景を眺めた。色が変わるごとに人の流れも変わり、途切れ、そしてまた流れ出す。
このスターニャックスは椿が物思いに耽る 時、なんとなく入るようになった。いつのまにか習慣化して今日もこうしている。3週間に一度あたらしいメニューが出るのもそれを手伝っているのかもしれない。何せ椿五十鈴は仕事柄、新しいものをチェックする癖があるから。
(同じ人間のはずなのに、思考も行動も違うのが不思議だよな)
2階からだから意外と人の顔も見える。黒い髪、茶色い髪、時たまピンクや青も混じる。それは女性だったり、男性だったり、外国人だったり色々だ。渋谷ほど人間を見るのに適した場所はない、と椿は思う。明るいし雰囲気がからりとしている。変化も多くて見ていて飽きない。
(人が多いのは同じなのに、歌舞伎町ってなんであんなに怖いんだろう)
新宿区歌舞伎町。詳細にいえば新宿サブナードから西武新宿駅、そして東新宿までの一帯を指す。ただあの飲み屋街全体を歌舞伎町と言う同業者もいるから、映画館周りの雑多なエリア、と捉えるのがいいのかもしれない。
椿はもう一つ、あの場所に対して他人とは違う感覚がある。歌舞伎町は恐ろしい――と。夜の街特有の治安についてではなく、根源的な相性の悪さだ。悪いことが起こる場所、それが椿にとっての歌舞伎町なのだった。
けれど先日その状況に変化が起こった。ストーカーに襲われたところをあの黒鳥由弦が助けてくれたのだ。あまりといえばあまりの偶然に驚いたけれど……。
テーブルに伏せていた携帯を持ち上げ画面をつける。そして何度かタップすると黒鳥からのメッセージが見える。内容はいたってシンプルで、ぎこちなさすら感じさせる『よろしくお願い致します』だけ。けれどそれだけで感情が上擦った。ありていに言えば、楽しくなる。本日何度これを繰り返しているだろう。
数日前、自分を助けてくれた黒鳥へ改めての礼ということでマネージャーと一緒に都庁へ行ったのだった。そこで今後も連絡をとっていい、と黒鳥は言ってくれた。こうしてSNSのアカウントも交換した。嬉しくて、なんども携帯画面をつけてはにやにやとする。だからあの日から携帯のバッテリーの減りが早い。とはいえ今日はオーディション台本も受け取ったしあとは帰宅するだけだから構わないのだが。
SNSを閉じると携帯画面の時刻表示が目に入る。17:30。既に夕方で、もう少ししたら都心もオレンジ色に染まるだろう。風も気持ちよさそうだ。歩いて帰宅するにはちょうどいい……。
椿の自宅は神泉駅の少し西側にある。ここからは椿の足なら30分もかからない。椿が所属する事務所は中目黒で、だから電車が無くなっても歩いて帰れる場所に事務所がマンションを用意してくれた。ただ近いといっても深夜になれば、徒歩で帰宅ということは滅多にない。いつもタクシーだ。それにマネージャーの佐藤が同道することもある。
椿は芸能人ではあるが、まだ名前も顔も売れていない。ぱっと見体躯の立派な、少なくとも華奢には見えない成人男性だがそうせざるを得ないのだった。
――だって、俺は狙われるから。
芸能を始める時、それが唯一の懸念だった。そうしてそれが現実になればやはり事務所に迷惑をかけていると萎縮したが、事務所社長もマネージャーも、それを飲み込んだうえで椿を育てようとしてくれている。
最初は萎縮したものの、これは恩が出来た……と椿も飲み込んだ。だから椿は一生懸命に仕事をし、この頃段々と事務所に仕事を持ってこられている。そんな自分が嫌いじゃない。努力によって得られた対価を実感することは、自分の魅力がもって生まれたものだけではないと確信できるから。
もって生まれたもの……例えば顔、例えば身長、例えば―この妙な血筋。
再び街を見た。人間が沢山いる。みんなどこかから来て、どこかに行くのだ。それは自宅だったり、仕事先だったり、誰かとの待ち合わせ。
そうして椿は己が無意識に黒髪の男性の姿を追っていることに気が付いた。気が付いて、そうして改めて意識的にじっと見つめてみる。
――でも、だれにも似ていないんだ、あの人と。
そう実感する。あの黒鳥由弦に似た人間はだれ一人としていない。黒髪に黒いスーツ、中肉中背……というには彼は少し細いかもしれない。けれど見ないタイプというわけではないはずだ。なのに、『だれ』にも似ていない。自分にとって黒鳥由弦が唯一になったのか、それとも本当に彼に似た存在などいないのか。
「……」
黒鳥由弦をもう一度思い返してみる。
まず髪の毛はどこまでも黒い。鴉の濡れ羽色……とはどこで見たのだっけ。今まで手にした台本だろうか? けれどその毛は柔らかそうで豊かで、触れればするりと指先に梳かれ流れていきそうなほど。
顎は細めで、その上に薄めの唇が滑らかな曲線で造られ置かれている。鼻も控えめだ。けれど鼻梁がすっと通っていて男性らしさがそこにあった。目は伏し目がち、その睫毛は長め。
だって下瞼にその影が落ちていた。首から肩は華奢で、余計な筋肉が無い分体幹はすっと真っ直ぐだった。指先まで滑らかな曲線で、細すぎず太すぎず。腰回りも頼りなげなのに、それであんな大きな男を投げ飛ばすのだから恐れ入る。
だけど椿にとって、一番印象的なのはあの両の目だ。
――綺麗だったな。
ただじっとそこにあり、黒く深く、星のない夜の海を思わせる静かな目。それは生きるために他者から奪うという意思のない視線なのだ。泰然自若な存在として、ただ彼は立っている。
(怖くなくて、とても居心地が良くて、そしてずっと見て欲しいと思った)
そう。見ていたいではなく見ていて欲しい。それは家族にも感じたことのない奇妙な信頼だった。自分が見ている分には視線を逸らすという選択肢がある。けれど見られることに椿は拒否権を持たない。なのに黒鳥由弦に見つめられることはどこまでも温く、流れの無い海に身を浸すような充足があるのだろうと思えた。
それは彼の指先に首筋を撫でられるような感覚だろうか。それは彼の冷えた唇を腰に押し付けられるような、濡れた感情の交換だろうか。
(それとももっと――……)
その充足を想像し、椿は緩く下唇を噛んだ。滲むような痺れが喉の奥のほうに流れていく……。
それを冷えたドリンクで飲みこむと、不意に周辺のざわめきが耳に戻ってきた。視線で周辺を見渡す。そうだ、ここは渋谷のカフェ。それを忘れるほど考え込んでいたのだ。
もう目の前に先ほどまでの黒鳥由弦のシルエットはない。どこまでも雑多な東京の風景があるだけだ。もう一度眼下を見遣る。黒髪のサラリーマンを見つけて……それだけだった。そこに黒鳥由弦は見いだせず、飲み干し空になったフラペチーノの底を見た。
――もう帰ろう。
人の目を見ないようキャップを深く被りなおし、携帯をポケットに入れ椿は立ち上がった。空になったカップを近くのごみ箱に捨てると、スクランブル交差点につながる階段を下りていく。
外に踏み出せば少しの熱気と沢山の気配に包まれる。道元坂方面に足を向けた。
椿は思う。
(それでも俺はあの人を傷つけないといけない)
黒鳥由弦という存在を。
それはたった一つの、椿に与えられた選択肢なのだった。
了
※ウィンドウを閉じてお戻りください。