命を吊るモノ —東京殺人鬼—
――深夜1時半
新宿区歌舞伎町
区役所通りの一画にある雑居ビル一階、コンビニ店内
いつもここは場所柄ホストや水商売帰りの女性、またはクラブなど―俗にいう夜の仕事や遊びに興じた人間達が絶えず出入りしている活気のある店だ。
けれど今は誰もおらず、そして窓のシャッターすら降ろされている。
そのシャッターには張り紙がしてあり『ガス管の老朽化工事のため23時から8時まで閉店します』と管理会社の名前で告知がされていた。
だから今店内は必要最低限の照明しか点けられていない。外の音は漏れ聞こえてくるだけで、何か遠い世界のような錯覚すら起こす。
「30分になりましたので、では」
カモフラージュのため作業服を着こんだ調査班の人間に現場の開始を告げ、黒鳥由弦は店の裏口から入り込んだ。
ドアが閉まると、そこは非日常だ。
この非日常を作ったのは東京都庁にある東京都都民安全推進局。インフラの修理などに対応している部署だが、それはアラマツリ対策課の別名であった。
インフラ整備というのは何とも便利なお題目だ。特に危険があるガス管の入れ替えとなれば場所は封鎖出来るし、何も知らない人間たちも納得して近づかない。それが東京都からの知らせであるならなおさら。一般人の隔離に対策課がよく使う手であった。
無論ここのビルのオーナーや管理会社にも根回しは抜かりない。特にオーナーは新宿という土地柄アラマツリというのものを理解している人間が大多数であって、そういう時はそっと目を伏せ口を閉じ、命令に従うのみだ。
――公権力というのは恐ろしい。
この仕事に就いた時、黒鳥が真っ先に思ったのがそれだった。アラマツリの異質性より、権力には無条件に首を垂れる人間のほうに気持ち悪さを覚えたのを思い出す。普通は逆の感想
を持つ、という先輩の伊波からの指摘にはそうかもしれないと頷いておいた。実際そうなのだろうから。
黒鳥は裏口から段ボールが所狭しと並んでいる縦に長い5畳程度のバックヤードを通り抜け、ドアを開けて店内へと入り込んだ。そこはいつも見ているような変哲の無いコンビニエンスストアだった。資料によると70坪を超えているというから、通常よりもやや広めだ。集客を見込んでそうしたのだろう。
「……」
更に数歩進み周囲を見渡す。薄暗い店内に特に変わったところはない。入り口近くにレジがあり、様々な商品が陳列され、購入意欲を誘うような文句が書かれたポップが貼り付けられている。
――うっすらと、この店内を黒いものが覆っている以外は。
それは霧のようにも靄のようにも、毒々しい真っ黒な煙のようにも黒鳥には見えた。時折揺らめく様は命をも感じさせる
――死や悪から生まれ、集うものであるのに。
普通の人間には見えないそれ、アラマツリが現れたのが2年前だという。
現れたといっても報告者が見た訳ではない。この店の中で異変が起こるようになったのが2年前。
最初はなぜか陳列棚から商品が落ちている、という些細なものだった。
この店は酔客も多いから誰かが不注意で落としたのだろうと思っていたものの、それがあまりに一か所で続く。落ちていたのは常に香典袋。悪戯かと思いよくよく監視カメラをチェックすると、それが勝手に起こっていたのがわかった。
黒鳥も件の棚を見る。香典袋がタイミングよく、落ちた。
当時の店長からすれば得体の知れない恐ろしさはあるものの、ここで暴れる人間の様な実害はない。不思議なことがあるものだと思うに留めたが、次は店内に設置してあるATMがひとりでに反応する。これも誰もいないときに、まるで誰かがタッチパネルを押した様な動作をするのだ。お金を振り込んでください、と。そう――今のように。
あとはなんだったか。……不意に頬を掠めた雫に黒鳥は天井を見た。
「血の様なものが垂れてくる、だった」
手の甲で頬を拭ってみても何もついてはいない。
それで店長はついに折れこのコンビニの経営本部へと相談した。黒鳥からしたらよく2年も耐えたものだと思う。けれどそのようなオカルト話、売上高獲得だけが至上命題のエリアマネージャーに響くはずもない。けんもほろろな対応をされ、憔悴しきった店長を見かけたこのビルのオーナーが調査部へと依頼してきたのだった。
本来であればこの程度であれば未だアラマツリの影響は軽微、とデーターベースには記載され、黒鳥たち対策課の人間が出張ってくることはない。けれどオーナーはこの歌舞伎町に複数のビルを所有し、以前からアラマツリ対応の経験があったこと、またその伝手で都議会議員である土御門とも親交が厚かったことから今回に到る。
三貴子が言うに、この件は部署内政治の結果であり調査班に貸しになるのよ、と複雑そうに笑っていたか。
改めて黒鳥はコンビニを見渡した。それから次はレジ前へ進む。
調査班からの報告書に記載されている内容と、今起こっている異変は一致する。だから間違いなくこれは報告書に該当するアラマツリだ。
――黒鳥はじっと思案する。どう動くべきか。
……
……
同日、遡って14時。アラマツリ対策課。
「はーいみんなこっちみてー」
「いちいち手を叩くなよ」
上長である三貴子が二度、柏手のように掌を合わせて耳目を集めた。デスクで書類仕事をしていた全員が顔を上げた。全体に話があるときはいつもこうで、黒鳥も天道も慣れてしまい視線を送るだけだが、伊波だけは律儀にツッコミをいれている。伊波が三貴子と気やすい仲であるのは本当なのだろう。それは色恋ではないようだが。
「大事な話なの。今日の深夜の現場の件よ、黒鳥君が出るやつ」
「――自分の」
「そ。調査書には特に発生因果はなく、歌舞伎町はアラマツリが集まりやすいからって理由だったじゃない?」
「まあ確かにそうでは……あるんですけど」
先ほどまで見ていた書類を捲りながら天道瀧が曖昧に頷いた。その様子からして天道は報告書に思うところがあるようだ。それはそうか、と黒鳥も内心で同意した。ここに存在するものたちはアラマツリを実際に知っていて、命を懸けて戦ってもいる。だからこそ『集まりやすいからおかしな影響が起こるのはあたりまえ』という報告にはすぐに納得が出来ない。けれどそれをあの代々木の花が見えない調査班の人間達にわかれというのは難しい。あれらはそんなに簡単なものではないのだ、という主張は、対策課に所属するものが覚える肌感覚でしかないのだから。
「黒鳥君なら現場任せちゃって大丈夫よね、とは思ってはいるんだけど、一応ちゃんと調べたのよ、因果があるかどうか。そしたら綺麗に出たわ」
と、手元のクリアファイルのうちの一つを取り出した。表紙に部外秘と大判のハンコが見えたから調査班にもまだ共有されていないはずだ。
「2年2カ月前、以前の店長である60代の男性が死亡。名前は吉谷誠二、出身は名古屋で死亡時の住所は台東区。自宅での病死とされているんだけど、どうにも自殺らしくって」
「ん? なんでそんなことになってるんだ? 現場で検視があったろうに」
「事件性がないからっていうのと、故人が心臓病を患っていた、っていうのが原因ね。発作が起きて、けれど薬まで手が届かず……一軒家で娘夫婦と暮らしていたけど、その時運悪く夫婦は車で買い物に。鍵もかかっていて、防犯カメラにも異常は無し」
「でしたらそうなるでしょうね。けれどどうして三貴子さんはそれが自殺だと? 自殺の原因は?」
天道の問いはもっともで、黒鳥も頷いて三貴子の言葉を待つ。伊波の顔からも先ほどの軽口めいた表情は消えていた。
「ほら、歌舞伎町って人のつながりが網の目のようでしょ? だからその周辺に聞いてみたの。何かおかしなところはなかったか報告してねって」
その言葉尻に被るように、天道がああと呟きを漏らす。それを拾った黒鳥に天道がわずかに身を寄せて教えてくれた。
「つまりは歌舞伎町の商工会関係者に通達したんですよ、情報を上げろって。三貴子さん意外と権力者だからほぼ命令ですけど」
「……そうなんですね……」
「はは、言われてやんの」
「命令だなんて心外だわ。ま、命令だけど。そしたら亡くなったオーナーさん、どうやら店をたたみたかったらしいわ。あんまりにもエリアマネージャーとそりが合わなかったらしくて。でも本部との契約は残ってるし、きつい店長の役回りなんて他にいないし、でも途中で辞めたら契約違反での違約金が莫大だから二進も三進もいかない」
「成程なぁ。自分が死んでしまえば契約も関係ない、家族にも引き継がれない……心臓発作が起こっても薬を飲まず、幕引きをしたってわけだ」
ならば怪異を訴えていたのは当事者ではなく、その後に店を引きついだ人間、ということか。自殺という理由はわかった、その方法も。けれど……と黒鳥が口を開く。
「ならばその方じゃないのでは?」
「あら、どうして?」
「死んで本懐を遂げた人間であれば、そこへ留まる必要はないと思うのです」
「……」
伊波が僅かに首を傾げた。思案気に黒鳥を見遣る。
「お前はどう考える?」
「どう――……」
捉えるべきか。今までの情報がもたらすもの、感覚、己の経験……。
「正直わかりません。可能性があるのは殺人ですが、それは否定されています。……いずれにしても相対すればわかることです」
「流石です、黒鳥君」
「あ、……いえ、その」
天道家こそ代々強大で危険性の高いアラマツリと対峙しているというのに、ぽっと出の自分が大きなことを言ってしまったかもしれない。三貴子だって先ほど因果があった伝えて来たのに、これでは否定だ。己の失言にどうしようと視線を伏せた黒鳥に、三貴子は他意なく面白そうに頷いた。
「いいのよ。だって言う通りだもの……今日何かが起きるなら、その選択は黒鳥君にお任せするわ。楽しみにしてる」
「――、はい」
……
……
(自分には上長から選択権が与えられているのだった)
ならばまずはこのアラマツリがどういう存在か明らかにするのが先決だ。死んだ前の店長がいるのか、それとも。だからこの店の中に煮凝っている気配に意識を向けた。黒鳥がアラマツリを認識する存在である、というのを分からせるのだ。
(明確な反応はない。やはり無意識に近い……)
けれど萌芽は、ある。
黒く揺蕩う雑多で捉えどころのない気配の中、ぶれないものがあった。穏やかな波に、白い飛沫は目立つのだ。
成程、これは自分に適任だと黒鳥は自覚する。だってこれは自我のない独占欲だから。天道の刀によって死を自覚させるというのが難しく、伊波の癒しも受け入れない。ならばそんなアラマツリはどうしたらいい?
自我が発生するまで待つか? それも一つの手ではある。逆説的だが、自我がないからこそ思いの残滓は解消されず張り付いて、再び無作為にアラマツリを集めるだろう。
(そのように報告は可能だ、とは思う)
だがそれは終わりがいつになるか分らない。衝撃的な――この周辺で大量のアラマツリが放出されるような出来事があればきっかけになる可能性もあるが。
例えばそう、殺人や自殺など。可能性は少なくない、だってここは新宿歌舞伎町だから。
……歌舞伎町だからか、アラマツリが多いからか、卵が先か鶏が先か。
それは今の黒鳥には理解が難しいけれど。
けれど仕事として考えればそれは成果として不十分であるし、継続的な調査が負担にもなるし、何より対策課の対応が未熟だと調査班から言われるのは宜しくない。調査班とはあまりそりが合わない様子の、三貴子のあの顔が不意に浮かぶ。部下としては上役の顔を立てるべきであろう。
時間や機会はあてにならない。であれば、己が能動的に解決するのがよい……。
「……」
黒鳥は右手を手前に伸ばし、掌を下へ向けた。意識をするかしないかの一瞬で、そこには刀が現れた。意図で形状を変えるちから。それはアラマツリで構成されており、何よりも暗く輝いて墨で描いたような店の中ですら輪郭を犀利に示した。
――店内は、いつの間にかわずかな照明すら落ちている……落とされていた。
「好都合だ」
アラマツリは暗闇を好む。
刀を握り、手首を返す。片膝をついて勢いよく床へと突き刺した。そして己が全身に孕むアラマツリの力を拡げ、流し、そして誘う。
――揺蕩うアラマツリよ、ここへ。
時間とタイミングが分からないなら、己の力で強制的に成立させてやればいい……。みるみるうちに店内は黒く凝固したアラマツリが滴り落ち、有象無象の何かが歩き始めた。波打つ店内でけれど、一つだけ動かないものがある。それは黒鳥の目の前だ。レジのなかで俯いて、その老人は立っていた。
「吉谷さん、ですか」
老人は顔を上げる。目の中の白目も黒く、けれど自分を見ているのが分かる。いや、違う。黒鳥の後ろに並んた黒い人影を見て、嗤っていた。
――いらっしゃいませ。
接客は彼の日常で、そしてこの店に来る様々な癖のある客を彼は嫌いではなかった。常連と話す楽しさもあり、仕事を嫌いではなかったのだろう。けれど売り上げ至上主義のマネージャーとは合らず、追い詰められた結果の自殺。その気持ちが死してなおこの店に張り付いていた――……。
終わらせようと死を選んだのに、無意識に再び始めている。だから黒鳥は伝えてやるのだ、彼が踏み出せる一歩を。簡単なことだ、彼が容を得た瞬間に伝わってきた情景がヒントになる。
「接客に時間を取りすぎて売り上げが下がっている」
――……。
「お前の接客は時代遅れだ、上に言ってもう一度会議を開いたっていいんだぞ」
――お前のせいで、よくも。
「なんだその批判的な顔は。そんな包丁で俺を殺せるわけがないだろう、お前はいつも……」
黒鳥の喉を、いつの間にか吉谷老人が握っていた包丁が貫いた。黒鳥はその場に倒れる。
――人を殺してしまった。こんなことではもう接客なんて出来ない、皆に合わせる顔がない。
だから黒鳥は路を作ってやるのだ。彼の視線の先には4段ほどの階段がある。そして上から垂れる、結ばれたロープ。それは左右に誘うように揺れていた。
「その通り、あなたは終わった。人を殺した人間に笑いかける客などいません……もうこの世に居場所はないのですから、やることは一つです」
影は身を引き摺るようにして階段を登ると、ぬっと頭をロープの輪の中へと差し出した。いつの間にか階段は消え、首を吊った人影が不規則に揺れている。
「少し緩めにしておきました。これで死を実感出来ます」
もしかしてこの無意識の独占欲を作り上げたのは、前オーナーを偲ぶ常連達の影響もあったのかもしれないと黒鳥は思う。執着は、死者を想う生者も抱えるものだから。苦しみに藻掻く足が数度痙攣して止まると、店内に蠢いていた影も時を同じくして消えた。薄暗い店内に、アラマツリの影は既にない――……。
「お、お疲れ」
裏口から出た黒鳥を出迎えたのはなんと伊波だった。調査班の人間だけだと思っていたからこれには少し驚く。ネオンの眩しさに目を細めながら、伊波がゆっくりと近づいて来た。流れるように揺れる髪が綺麗だ、と不意に思う。
「伊波さん、どうして」
「部署待機も暇だったんで終わりを見計らって来てみた」
そうなのか。とはいえそんな風に柔軟に動けるのは彼が年長でありベテランである、というのもあるだろう。調査班の人間に目を向けると、携帯で会話をしている。現場終わりの連絡をしているのだろう。
「今日はどうだった? おかしなことはなかったか?」
というのは伊波の、いつもの確認の台詞だ。黒鳥が現場を終えた後、または次の日の朝に必ず問いかけてくることば。それにはいと頷く。
「問題なく解決出来た、と思います。けれど私の考えは違っていました」
「何だ?」
「アラマツリの中心となっていたのは死んだ前オーナーでした」
「そうか、流石三貴子ってとこか。外さないな」
この現場の詳細なレポートは明日作成することになるだろう。その際は事実を書くとして、どうしても黒鳥には一つ、疑問が残った。
「お伺いしてもいいでしょうか?」
「んー?」
「死んでもなお残り、そして死を悼む心が存在を縛りつけるなら、死とは何なのか、と」
死は終わりのはずだ。けれど自分達は常人には及ばぬ理解を求められている。
「……。俺にも分からない、が、―お前ならきっと理解出来る日がくると思う」
「そうでしょうか? 伊波さんにも分からないものを自分が?」
「ああ、きっと」
伊波の双眸が柔和に細められた。そうしてから、伊波は黒鳥に横並びになってその背をそっと押す。
「初台の寮まで送ってってやる」
「いいんですか? けれどお疲れでは?」
「勿論良いんだよ。俺はそのために来たようなもんだ。遠慮
するなよ、先輩には甘えとけ」
「……、ありがとうございます」
伊波の気遣いが嬉しい。小さく頭を下げ、背中を押されるまま現場を後にする。
(理解を出来る日が来るだろうか)
なんとはなしに流れる髪の隙間から空を見上げた。そこにははやり、アラマツリに覆われた薄暗い空しかないけれど――……。
……
………
…………
了
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