梅の蕾が綻び始めた頃、久しぶりに一枚羽織る物を減らして外へ出た。
足を踏み出すと、柔らかな雨が肌に触れる。風が吹けば、上着を一枚減らすには早かったかと思うほどの寒さが身に沁みたが、鬱々とした気分を飛ばしてくれるようでもあった。袖の梅文様も、風に乗って揺れている。
――心地いい。
綜万は細く息を吐いた。
ここ最近では、出かけるにはうってつけの日ではないだろうか。そう思うものの、あたりに人の気配はない。
もともとこの辺りは灯りがなく、鬱蒼とした場所だ。こんな場所へわざわざやって来る物好きはそういない。加えて、申し訳程度の灯りすらかき消すような暗い空が、その理由に拍車をかけていた。
夜を引き連れてどこかに今、鬼が出ている。
そんな折に外へ出るなど呑気だと言われそうなものだが、綜万にとっては鬼がいるもいないも関係のない話であった。
むしろ、人と出会わずに済む夜のほうが心置きなく外にいられる時間ですらある。
香りを頼りに梅の木の元へたどり着く。毎年、梅を見るのは好きだった。暗がりの中、自分の手に持つ灯りだけを頼りに眺める花は、どこか楽しい。木に背中を預け、しばしぼんやりと梅を堪能する。
とはいえ、ヨノモリの人間が夜を長引かせるほど無能でないことも重々承知している。この自由な時間は、わずかなものだ。
それでもこうして出てきたのは、何も花見だけが目的ではない。
今日は、遠くから賑やかな音が聞こえる日だ。その中には、彼がいる。
***
今日は節分。
町全体が節分一色になるため、行事そのものを忘れることはない。
とりわけ今日は、ヨノモリが主体となって盛大な催しを開いている。
その分、毎年この日はヨノモリの人手が足りず忙しい。それはヨノモリに入隊したばかりの真秀にも同じことだ。催事の雑用と、復旧班での任務がある。運悪く鬼も現れ、区隊の合図を待って出動することになり、休む間もなく動き続けていた。
そのせいで、家に帰る頃にはくたくたに疲れていた。
(これだけ盛大に鬼払いをしていても出るときは出るんだもんな、鬼)
と、少しだけ罰当たりなことを考えながら、真秀は帰路につく。道すがらの市場はいつにも増して賑わっていた。呼び込みの声、酔客の笑い声、行き交う人の熱気。そこかしこから立ちのぼる煙が夜気に混じり、焼いた鰯の匂いが鼻を刺す。
人の波を抜けるのに手間取りながら、ようやく家へとたどり着いた。
障子戸を開き、中へ身を滑らせて隙間なく戸を閉めてから、誰もいない部屋に声を掛ける。
「ただいま。ごめん、服すぐ着替えるから」
畳へ上がるや否や帯に手をかけ、着物を脱ぐ。それから箪笥から替えの出し、腕を通した。
魚を焼く匂いとは、どうしてこうも布に染みつくのだろうか。道中で浴び続けた煙のせいで、すっかり鰯の臭いが移っていた。
それが気になるのには、理由がある。なにしろ、家には秀――鬼がいる。
「主、お帰りなさいませ」
するりと土間の影から姿を現わした秀は、何ともないように言う。
「大体、本当に鬼除けが効くわけではないんですから、匂いくらい大丈夫です」
「わかってるんだけどさ。やっぱり気になるんだよ。一応、鬼は鰯の臭いが苦手って言われてるでしょ」
真秀は畳にへたりと崩れた脱ぎたての着物を手に取り、さっと外に干そうと屋根のつけられた裏手の障子を開ける。ぶわり、と近隣から流れ込んできた煙と臭いに、思わず顔をしかめた。
どこもかしこも、今日のご馳走を用意しているらしい。屋根で覆われた裏手は、たっぷりと匂いを溜め込んでいるようだった。
真秀はさっと障子を閉め直す。
「……ごめん、部屋で干すけど許して」
秀はくすくすと笑いながら、はい、と答える。
真秀は肩を落としたまま着物をはたいて壁に掛け、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ、水。汲んできてたっけ?」
「はい。まだそこに残っていると思います」
どうかしましたか、と水桶に向かいながら秀が訊ねる。
「まだ早いのに花見してる人たちがいて、梅を貰ったんだ」
ヨノモリの隊員は大変だろうと、外をあちこち駆け回っていたときに半ば強引に押し付けられて持ち帰った。梅の枝は、明らかに力づくで折ったように見えるがそこは目を瞑ろう。どうせ酔った勢いなのだろうから。
小さな桶に水を張り、そのまま枝を差す。
これで蕾が開くまではもつだろう。
(そう言えば、昔は僕も枝を折ったりしてたな)
あの頃は、ただ綺麗なものを持ち帰ろうとしていた。今ではそんな気も起きないが、やはり花を部屋に飾るとどこか気分が華やぐ。
顔を近づければ、さっきまでまとわりついていた煙の魚臭さとは違う匂いがした。淡く優しい、静かな香りだった。
その日はしばらく、秀と並んで小さな花を眺めていた。
***
梅の蕾が一つ綻び、幽かな匂いを運んでくる頃、辺りはすっかり茜色へと戻っていた。もう少しこの賑わいを遠くに聞きながら花を眺めていたい気持ちがあったが、綜万の身体はすっかり冷えてしまっている。
――戻るか。
肩に乗った花弁たちを払い、木から背を離す。
名残惜しさに、もう一度梅の木へ視線を送った。
「そんなに恋しいなら、枝の一本や二本、折っちまえばいいじゃないか」
声に振り返れば、いつの間に顔を出したのか八重が立っていた。
毎年わざわざ人が外で賑わうこの日に外へ出ることを知られているとは面倒なものだ。それでも、八重はただ綜万のことを梅が好きないけ好かないやつくらいにしか思っていないだろう。
人が多いからこそ、それに紛れて顔を見たい人間がいるとは思っていないはず。
「いい。見たければ、こうして見に来る」
八重の言葉には取り合わず、そのまま足を進める。背後で八重が何か言っているが、気にしていてはきりがない。もともと、相容れない相手だ。欲しければ無理矢理にでも奪えばいい、そんな考えには賛同できない。
たとえ遠くから眺めるだけでも、手に入れられなくとも。そこにあるだけで美しいものは美しい。触れる必要はない。
この日、梅が綺麗だった記憶があれば、十分なのだ。
了