その男は橙門市場へと足を運んでいた。今日もこの場所は、多くの人が集まり賑わっている。
緑の混じる黒い髪を大袈裟に揺らしながら、空から落ちる雨粒にも構わず人込みを歩き続けている。足元は泥に汚れ、大雑把に歩くせいでさらに汚れは酷くなっていた。その粗雑な雰囲気から男の機嫌が良くないことは明らかだった。
この男――晴は、人間が好きではない。
御遣い――人間はとうせん坊と呼んでいるらしい――に育てられ、彼らを使役することができる晴は人と馴染むことがなかった。もっとも、彼自身は孤独を苦にしない。いつでも御遣いたちが傍にいたからだ。人が寄り付かない場所を住処とし、一人で生きるようになって久しい。
とはいえ、人間との接触を完全に断つことも難しかった。生きるためには最低限のお金が要るし、暮らしを便利にするには町で物を買う必要がある。今日は使い古された雪駄を買い替えようと思っていた。晴は見た目を整えることも重要だと考えている。こだわりはないが、傷めば買い替える。そんな風に生きてきた。
自身が御遣いたちと同じように生きられたならこのような煩わしさはないのに、と、何度思ったことだろうか。生きるだけで腹は空くし、人間と同じ姿である以上同じように振る舞わなければ爪弾きにされる。自分は人間とは違うというのに、運悪く同じ見た目で生まれてしまったがために余計な面倒を背負わされている。
それゆえに、とりわけ人の多い市場は苦手だった。早く用事を済ませて帰りたい。そう思う一方で、今日はもう一つ目的があった。
――先日、やっと自分と同じような存在を見つけたのだ。
その男は晴と同じような年の頃で、やや明るい茶の柔らかい髪と、丸みのある声が印象的だった。姿かたちは他の人間とかわらないが、確かに彼は鬼を従えていた。幼く見える容姿に、大きく結わえられた白い髪、顔を覆う布。そして彼を主と呼び、慕う。人の姿をしながら人間とは違う存在。まさに自分と同じだ。
ずっと探していた。
しかも、その男も同じ隊の人間に悪態をつかれていた。
(あやつも、私と同じように冷遇されているのだろう)
彼となら親しくなれるかもしれない。いや、必ず友となれる。お前も本当は周囲と馴染めずにいるのだろう。私たちなら理解し、支え合える。
普段なら市場に来ても無意識に顔を伏せ、目立たぬように歩いていたが、今は違う。その男を見つけるために忙しなく視線を巡らせる。
その時ふわりと甘い香りが鼻をくすぐり、つられて視線を向けた。どうやら菓子処から漂ってきたものらしい。ちょうど、店から出てくる者がいる。
「じゃあ旦那、また来るから」
「おう、気をつけてな」
時が止まったように、晴の視線は彼に釘付けになった。
あの日聞いたよりもずっと柔らかな声に、薄い茶色の髪。細められた目は店主へと向けられている。今は私服であることから任務中でもないと知れた。
――あの男だ。
彼は晴の存在に気付くことなく、そのまま帰路につく。晴は逃してはいけないと、自らの用事を後回しにしてその背を追った。
………。
………。
しばらく後をつけていると、茜色の空がにわかに暗くなる。どこかに鬼が現れたのだろう。人々は逃げ身を潜める。
元々人気のなかったこの場所は誰もいない場所となり、道を照らす灯りだけが目立っていた。 鬼は晴にとって脅威ではない。御遣いたちが守ってくれる。ひとり夜の中に取り残されても恐怖はなかった。
「……しまったな。どこへ行った」
だが、逃げ惑う人々に気を取られている間に彼を見失ってしまった。彼もヨノモリの隊員とはいえ今は丸腰。どこかで匿ってもらったのだろうか。晴は上手くいかなかったことに落胆し、一つ溜息を吐く。友人になるためとはいえ、市場のような人の多い場所へ何度も足を運びたくはなかった。今日の予定もまだ果たせていなかったと言うのに。
「仕方あるまい。……またいずれ会えるだろう。私たちは唯一の、同じ存在なのだから」
今日は諦めるしかない。そう思い踵を返した時だった。背後が一際明るく閃いた。火の粉が舞い、炎の柱が見える。
「なんだというのだ、まったく……」
振り向けばそこには予想だにしない光景が広がっていた。炎に囲まれ鬼に襲われている先程まで追っていた人間。彼を守るように白い鬼も姿を現わしていたが、防戦のみで抵抗ができていない。
訳があるのかなんなのか――。このままでは男が危うい。
「――仕方のないやつだ」
手を貸してやろう。こんなところで死なれでもしたら不愉快だ。
「なに。友になるためには、これも必要なことだ」
その時の晴は、相手の鬼の強さも気に留めていなかった。ただ彼を助ける、その気持ちだけで動いていた。
晴は気が付けば地を蹴り、彼――真秀の元へ向かった。
了