数年前、酔っ払いに絡まれていたのを偶然、助けた。六本木のネオンに照らされた和装の彼は、泥中に咲く一輪の花のようだったという。
「大げさ」
篠田はすかさず突っ込みを入れたものの、海藤としては冗談ではなかったらしい。大真面目に「花」を保護せねばならない理由を話し続けた。
何でも、ある事件に関与している可能性が高い。だが、まだ警察として動ける段階ではない。かと言って放っておいたら殺されてしまい兼ねない。ある事件とやらには、裏社会の勢力が関わっていた。
「というわけで、事務所で雇いたいんだけど、どうだ?」
「まあ、いいんじゃない。逢見くんと佐々木くんが成果出してくれて、少しなら余裕あるし。一応面接はしておこう」
確かに、いったん素性を隠して、六本木以外の街に匿うのが最善だろう。海藤が新宿中央署長から探偵事務所長(共同)へ転身するのも決まっている。結果的に、これが海藤の警察官としての最後の仕事となった。
採用面接当日。春の陽気の中、篠田・海藤新宿探偵事務所を訪れた和装の男は、線が細く、色素が薄く、しかも無意識に花香を匂わせていた。
(さすが、ヤクザの情人)
彼は二十代のほとんどをヤクザに囲われて過ごした。そのせいだろう、羽織の裾をふわりと捌いて応接ソファに座る仕草も、どことなく浮世離れしている。
「じゃあ改めて、名前は?」
「ええと……碓井佳人、です」
抑揚のない声で紡ぐ。海藤からある程度の指導はされているようだ。履歴書を持たない彼に、最低限の個人情報や健康状態を尋ねていく。
「うちで働く気はある?」
「……はい」
働く気がないわけではない、の『はい』だと篠田は感じた。海藤の思惑であるにせよ、本人にはおよそ意欲も逼迫も感じられないが、墓穴を掘る心配もなくてよいか。
「よし。うちで君を拾おう」
「え」
篠田がユーモアを交えて伝えてようやく、碓井の表情が揺らいだ。そこはかとない不安。その根っこを把握すべく観察しながら、当たり障りのないことを言っていく。
「大丈夫、仕事のやり方は僕を含めメンバーがちゃんと教えるよ。依頼内容のヒアリングから情報収集、張り込み、尾行、報告書作成、メンバー用マイページの活用。あと、新宿の美味しいお店とかもね。食べ物だと何が好き?」
不安を浮かべていた碓井の目は、見開かれ、次いでぱちぱちと瞬き、最終的にふっとゆるんだ。
「肉です」
他のメンバーには、順次紹介していった。探偵という業種上、全員在所の日はなかなかない。
碓井は意外にもするりと馴染んだ。壁をつくるのさえ面倒くさいというようなダウナーぶりもあるが、もともと人嫌いなわけではなさそうだ。同い年の館山や佐々木辺りとはくだけた口調で会話する姿も見られた。
ただ、ふと花弁が閉じるような瞬間がある。
「俺たちこれからスーパー銭湯行くんだけど、碓井もどう? 広くて空いてる穴場なんだ」
「いや、僕は……そんなに汗掻いてないから」
「そっか。んじゃ、お疲れ」
夏も盛りの給料日、佐々木の誘いから逃げるように背を向けた。逢見や水内も、裸の付き合いを無理強いこそしなかったが、訳アリというのは察したようだ。
そうやって碓井が守るものは何だろう。たとえ仮初めの居場所でも、新宿の水が合ってくれたらよいのだが。そうでなければ枯れてしまう。
彼が六本木での事件に関与しているかどうかは、今も独自に調査していた。そこに、新宿裏社会の動きがあり、碓井にとって因縁とも言える男の影も見え隠れし始めた。
(碓井くんて、放っておけない気持ちにさせられるんだけど)
都合よくモラトリアムは続いてくれないらしい。
かと言って、みすみす踏み荒らされはしない。賭けではあるものの、攻撃は最大の防御ということで、篠田は碓井を新宿中央署との案件にアサインした。
「売春組織が、常習者以外にもクスリを売り捌き始めて――」
概要を話すと、碓井は恵みの雨を浴びた花のように口元を綻ばせた。それは丹念に世話をしてきたつもりの篠田でさえ、初めて見る表情だった。