警視昇任を控え、研修のため府中の警察大学校へやってきた篠田累は、「非の打ちどころがない新人」の噂を耳にした。
まずキャリア――国家公務員試験一種の上位合格者という時点で、警察組織どころか同世代のトップオブエリートである。その中でも飛び抜けて優秀と聞けば興味が湧くというものだ。
(今のうちに手懐けといたら、後々便宜あるかも?)
かの名は亜雲壮。キャリアは大体同じ大学の先輩後輩だが、四年のときの一年となるとあまり印象がない。とはいえ二十歳前後の男は短期間で大成長を遂げることもある。篠田の卒業後に頭角を現したのかもしれない。
未来の警視総監様の器か否か。亜雲を見極めに、食堂へと足を運んだ。
(どれどれ――っと。おお)
同期に尋ねるまでもなく、その男は見つかった。他の警部補たちは無意識にか彼が中心になるようにテーブルに着き、既に王者の風格を放っている。
ノンキャリアが行く警校ではあるまいし、スポーツ刈りが少し伸びたくらいの髪型だ。それはあらゆる男から補正効果を奪うと思いきや、彼のような精悍な美形は例外らしい。ピシッと背筋を伸ばして、箸や食器を正しく扱っていた。そう、「正しく」。
(品行方正って言葉が似合う。似合い過ぎる)
篠田は味噌汁を口に運びながら、亜雲をそう評価した。それは警察官の美徳だが、出世の条件とは言えない。ただ、篠田を含めた大勢の視線に晒されても涼しい顔をしているのは間違いなく大物だろう。
「柔道黒帯だとさ」
「は? あんなしゅっとした体型で?」
「脱いだらすごいんだろうよ」
周囲では、エリートの研修施設たる警大らしからぬ会話も飛び交う。
キャリアの仕事は組織運営であり、現場での捜査活動ではない。階級が上がるごとに現場からは遠ざかる。それは父親の事件を追う篠田にとってタイムリミットを示すのだが、今は置いておく。
亜雲とて当然キャリア街道がどんなものか理解しているだろうに、武道の研鑽も怠らなかったとは、確かに非の打ちどころがない。
あとは、その余りある能力をいかにコントロールするかに尽きる。
亜雲が直属の上司を退職に追い込んだ、という情報がキャリア組の間を駆け巡ったのは、その約半年後の冬だった。
「自信喪失させたってことですか?」
「いや……あの人、前から家庭内暴力ぽかったんだよ。て言っても証拠がなかったんだが、例のスーパー警部補くんが独自に証拠集めて突きつけたらしい。で、上司さんはプライド守るために退職届と離婚届置いて失踪。奥さんは被害届出すどころか大泣き」
海藤直鷹が淡々と経緯を説明する。研修の後、篠田は新宿中央署に赴任したのだが、キャリアの先輩である彼は何かと構ってきた。どんな意図があるのかわからないが、キャリアにしては現場経験が多く、篠田も自身の目的のためにこうして喫煙休憩に付き合っている。
「奥さんは自己防衛による依存だとしても、上司の上司は……」
「まあ『余計なことしやがって』って反応だよな」
「折れちゃいますかね、亜雲くん」
「いや。警察官として間違ったことはしてない、とさ」
なるほど。それで内部の情報網に詳細が流れてきたというわけか。同僚の不祥事は、たとえ未遂でもマスコミに嗅ぎつけられないよう厳重に処理される。だが亜雲は対内部の口止めを拒んだのだろう。その必要がない、と。
(やっぱり、折れちゃうんじゃないかな)
組織の中で、自身の正義感に精神力がどれだけついていけるか。彼が折れるか折られるかするにしても、せめて見守り続けようと篠田は思った。
結果的に、折れる日も折られる日も未だ来ていない。
「彼、こっちに来るんだって?」
「そ。俺の後継者」
あれから七年を経て、今や警視を務める亜雲が、渋谷署から新宿中央署へ異動になった。海藤の退職の穴を埋めるため、なんて一部では囁かれている。と言うか本人が吹聴している。
一年目の事件で、亜雲はやはり上層部に目を付けられてしまったらしい。これまでの配属先はいわゆる王道から微妙に外れていた。ただ、本人はむしろ精力的に現場での捜査活動を行っているとか。
「未だに六本木のクラブに出入りしてる直鷹の代わりが亜雲くんなら、署の飲み会経費がさぞ圧縮されるだろうね。彼はゴマを摺りも摺られもしなさそうだし」
「累ちゃん、それ当てつけ? キレイなお姉ちゃんお持ち帰りとかしてないよ? まあ、そこは俺が自費で摺り続けとくつもりだけど。人脈の強化は事務所にもメリットあるしな」
そうして海藤がつないでおいた人脈は、確かに活きた。
新宿の裏社会が急速に表社会を侵食して、後手に回った新宿中央署から密かに協力要請を受けたのである。公務員たる彼らと、OBとはいえ民間人になった篠田たちが手を組むことは原則、あり得ない。つまり結構な非常事態だ。
警察側の担当者には、亜雲を指名した。海藤の折衝力も相俟って「守秘義務違反はできません」と固辞されずに済んだ。
顔合わせの日、事務所に現れた亜雲は、伸びた髪をオールバックにして、スーツを品よく着こなしていた。
「初めまして。生活安全企画課長の亜雲壮です」
「所長の篠田です。よろしく。実は僕ら、初めましてじゃないんだよ」
君は覚えてないだろうけど――と続けようとしたが、亜雲が一拍先に口を開く。
「はい。警大にいらしてましたね」
七年も前、彼にとってはすれ違ったがどうかという程度にも拘わらず、事もなげに言ってのけた。むしろ篠田のほうが覚えていないと踏んで「初めまして」と切り出したのだ。
亜雲は記憶力を誇るでもなく、眼鏡越しに篠田を見下ろしている。それが却って、否が応でも隠せぬ牙の存在を感じさせた。現場にこだわる彼にとって、この案件はさぞ歯ごたえがあるだろう。