

まったく、主様には驚かされてばかりです。
いつだって、予想もつかないことをしてのけて、私たち従属の度肝を抜いてしまわれるのです。
ええ、分かっておりますとも。
主様は選ばれしお方。
半妖の身でありながら、また、御歳はたちやそこらの若さでありながら、羽織となられるほどの器量の持ち主です。
たかが箒の化身に過ぎない私のような者が、天稟をうんぬんできるお方でないことは、百も承知でございます。
主様にお仕えできる今の暮しを、またとない果報と心得ております。
でも――でも、なのです。
そんな私の忠心も、昨今なにやら複雑で、二君に仕えるような落ち着かなさで……あ、申し訳ございません。
私としたことが、ついつい話を先走ってしまったようで。
はい、諸氏お察しの通りでございます。
先ごろより、主様と身体を分け合うようになったお方がいらっしゃいます。
雷王様によれば、もともと主様の中で永くお眠りだったのが覚醒されたとか。
そう。緋王様という、あのお方についてでございます。
初めて緋王様からお言葉を賜った時のことなら、忘れもしませんとも。
あの日私は、夕餉の膳を調えて、しずしずと大階段を登っていったのでございます。
たまさかその夜は雷王様も弧白様もご不在、さぞや主様お淋しかろうと思いなし、普段に益して私、
手間隙かけたお菜をご用意したのです。
「主様、お夕飯でございますよー」
一声かけて襖を開けた私をひたと見詰めるその瞳は、なんと紅。
燃え盛る焔の色でありながら、ひんやりと冷たい瞳でございました。
「わああっ!」
三段跳びに飛びすさったものの、どうにかお膳を落とさずにすんだのは僥倖というものでしょうか。
慌てふためく私に、緋王様は、無駄に重々しい王者の風格で言い放ちます。
「遅い。我は腹が減った」
これが、初めて私に向けられた緋王様のお言葉でした。
遅い。
腹が減った。
……遊び疲れた童ではあるまいし。
と思ったのは後になってのことで、当時はただもう、胸乱れて、涙さしぐむほどに恐ろしく。
だって私、正銘に初めてだったのです。
緋王様のお声を聞くのはもちろん、お姿を目の当たりにするのも。
雷王様や弧白様から伝え聞く緋王様のご気質は、まさに焔の如く荒ぶって、何者も触れるを許さぬ烈しさだとか。
それにしても、何故、緋王様がここに? もしや主様に何か異変でも。
にわかに不安に襲われて立ち尽くす私に苛立たれたのか、緋王様は、美しい眉を寄せたと思うや、ばんばんと床を叩かれます。
「聞こえぬか下郎。我は空腹だ。早く膳をここへ」
「あああっ! は、は、はいっ!」
どうやら緋王様、夕餉を待っておられたご様子。私はあまりの剣幕に圧されて、主様のための膳を捧げ置いてしまったのでございます。
献立は、主様のお好きなもの尽くしでした。
先付として青豆の乾煎り、鱧と焼き茄子を白味噌に仕立てた椀、橘の果汁でしめた鰹のお造り、海老を擦り込んでたっぷり甘い卵焼き、瓜と若布の酢の物。
いずれも、夏の旬の味覚です。
緋王様は膳を眺めて、ふん、と鼻でお笑いになりました。
ご満悦なのか、粗食よとお蔑みなのか私には分からねど、ともかく緋王様は、優雅な所作で箸をお取り上げになりました。
まず、青豆を一粒。
それから椀、お作り、焼きものと、次々に召し上がられます。
一通り口をおつけになった後は、召し上がる速さがどんどん増していきました。
まるで――ああ、失礼ながら他に喩えを知りません――地獄の餓鬼のような勢いです。
で、ありながら、不思議でございますね。
緋王様の仕草は、どこまでも優雅でいらっしゃるのです。
時にお菜を手掴みなさるお行儀の悪さだというのに、備わった風格は損なわれるどころか、いっそう堂々して、雄々しくて。
私は威厳に打たれ、お菜を平らげるご様子に見惚れているばかりでございました。
やがてすべてのお皿が空っぽになると、緋王様は長い溜息と共に箸を置かれました。
緋王様の唇には有るか無きかの笑み、ついでに若布の切れ端なんぞも。
お気に召しましたかと、おどおどお尋ねする私に、一瞥。
眼差しに、お食事前のような険しさがないのは気のせいでしょうか。
緋王様は短く息をつかれた後、吐き棄てるようにおっしゃいました。
「悪くはない」
……と、このようなことがあってから、しばしば、緋王様に食膳のお給仕をする機がございました。
それも大抵、雷王様も弧白様もいらっしゃらない時。
つまり緋王様は、腹心のお二方の目を盗むようにして現れ、私のお菜を召し上がるのです。
得心がいかぬ私は、思い余って主様にお尋ねしました。
何故、お二方のおいでにならない時ばかりを狙って。
何故、夕食時に限って。
「何故緋王様が現れるのです、主様?」
主様、困ったような呆れたような微笑みを浮かべます。
「ああ、ありゃな。緋王の奴、俺が狡い狡いってやかましいもんだからよ」
「え? 主様が、狡い?」
「普段あいつ、俺の中で眠ってるだろ。つまり、俺ばっか美味いもん喰いやがって、ってこったな」
「……はあ」
なんと、喰い気の話でしたか。
ただそれだけのことでしたか。
私は拍子抜けしてしまうのです。
「あ……それではどうして緋王様は、雷王様と弧白様がご不在の時ばかり現れるのです? 私一人で緋王様のお給仕するのは、その……少々荷が勝ちますようで……」
今度は主様、お渋いお顔。
「うーん、それも困りもんでなあ。あいつ、どうも雷王と弧白が苦手らしいんだよ」
それはまた、どういうわけでございましょう。主様をいとおしむこと、互いに引けを取らないお二方です。
主様の分身である緋王様を粗略に扱われるはずなど、あろうはずもございませんのに。
「それが煩いんだとよ。べったりくっついてくる弧白が気色悪いとか。俺は昔っから慣れてて、今さら気にもならねえけどな」
「雷王様については?」
「そりゃお前ぇ、分からるだろ。緋王の行儀の悪さ、あれを雷王が見過してくれると思うか?」
なるほど、確かにその通りですね。
雷王様がいらしたら、掻き込むな音を立てるな手掴みするなと、口喧しくお小言をくれるに決まっています。
「ま、そんなわけでよ、桃箒。扱いにくい奴だろうが、これからも時々、飯を喰わせてやってくんな。あいつ、お前の料理をよっぽど気に入ってるみてえだ」
本当でしょうか。
緋王様は、いつも黙って召し上がるばかりで、悪くないとおっしゃるばかりで。
「あいつは俺にだって、美味いとか言わねえよ。けど、分身なんだぜ? あいつがどう思ってるか、分からねえわけがねえだろ?」
主様は、煙管をぷかりとふかしておっしゃいます。
「まったく、お前の料理は大したもんだ。あの意地っ張りの偏屈野郎でさえ手懐けちまうんだからな」
「そう……なのでしょうか……」
「そうさ。雷王も弧白もできねえことをしてのけたんだぜ。お前はすごいよ、桃箒」
主様からことの次第を聞かされた時は、さしたる感慨もございませんでした。
が、後になってふつふつと湧いてきたのは――そう、歓び、だったのでございます。
緋王様が、私の料理を美味しいと感じてくださる。腹心お二方の留守を狙ってまで喰いたいと望んでくださるのです。
そしてまた、私は突然、思い至ったのでございます。
緋王様は、主様の中で永くお眠りになっていて、世に溢れる美酒佳肴をほとんどご存じないのだと。
夏の涼味も、冬の滋味も、舌に受けられたことがないのだと。
ああ、なんとお可哀相な緋王様。
分かりました。
よろしゅうございます。
この桃箒、賄い人の誇りにかけて、緋王様のお口を愉しませましょう。
あの味も、この味も、すべて私が作って差し上げましょう。
どんな異国の珍味でも、緋王様が望まれるなら、きっとお膳に乗せてみましょう。
ですから、ですから緋王様。
今日でなくともよろしいのです。明日でなくともよろしいのです。
いつか、いつか緋王様。
おっしゃってくださいまし、私に、微笑みながらただ一言。
美味い――と。
さてさて、今宵は雷王様と弧白様がお出掛けです。お戻りは夜半、あるいは夜明けになるそうで。
つまり夕餉は主様一人で召し上がるそうで。
となれば、きっと……。
「主様、お夕飯でございますよー」
一声かけて襖を開けた私をひたと見詰めるその瞳は、やはり紅。
燃え盛る焔の色でありながら、どこかやんちゃな瞳でございました。
「遅い。我は腹が減った」
相も変らぬ、遊び疲れた童のようなおっしゃりよう。
けれど童も同然なのです。私がお作りするお菜は、すべて緋王様にとって初めての味なのです。
これほどに喜ばしく、賄い人冥利に尽きることがありましょうか。
「はい、お待たせいたしました。今日は、よい鰻が手に入りまして。お椀は、後口がさっぱりするように薬味をたくさん」
緋王様は待ちかねたように箸を取り、私の説明など耳に入っていないご様子。
ただもうひたすら、惚れ惚れする勢いで召し上がります。
緋王様、美味しいですか?
それが鰻というものですよ。見てくれはよろしくありませんが、実に濃醇な味わいの魚でございましょ?
「……おい」
あれ? どうなさいました緋王様、そんな難しいお顔をなさって。
喉に小骨でも刺さりましたか?
そんな時は、豆腐のような柔らかなものを勢いよく飲み込んで……。
「……これはなんだ」
なにって、お椀ですよ。
口に残るしつこい鰻の脂を流すため、葱や生姜や紫蘇といった薬味をたっぷりと刻み込んだ吸いものです。
「これはなにかと訊いておる!」
んんん? 緋王様のお箸の先にあるものは……ああ、それはね。
夏ならではの薬味でございますよ。
ほろ苦くて爽やかで、粋な香りでございましょ?
「……わああっ、緋王様っ!?」
箸が飛びます。
皿が飛びます。
漆の膳がひっくり返り、ついでに焔も舞い飛びます。
なに、なに、なにごとですか緋王様!?
「不味い! 不味いわ! おのれ、よくも我にこのような不味いものを喰わせおって! よくもよくもーっ!」
さすが緋王様、主様と身を分けるお方にございます。
おみそれいたしました、恐れ入りました。向後、重々気を付けます。
緋王様も主様同様、茗荷がお嫌いなのだということを、しかと肝に銘じましてこの桃箒、営々精進いたします。
いつか美味いとお褒めいただける、その日まで。
了