文:中条ローザ
2020年8月30日(日曜日)
15時30分
東京都港区
芝浦警察寮
せっかくの日曜日だというのに、あいにくの雨だ。
いくつかのイベントへの出席依頼を断り、なかば無理やり完全オフにしたというのに。
昨夜、土曜日のうちに我妻タイガの住まいである警察寮の一室にこもり、快楽にまつわるあれこれは明け方までに済ませてしまい、だから、日曜日はふたりでどこかへ出かけようと話していたのに。
テロ対策特命大臣としての任務がひと山を越えたいまなら、どこへでも行けるはずだった。
たとえば海水浴客も少なくなり始め、けだるく疲れて穏やかな海へ。たとえば往く夏を惜しんで、法師蝉が鳴き騒ぐ山へ。東京の四角い空から逃れて。
我妻のバイクにタンデムするための其扇専用ヘルメットなら、とっくに新調してある。我妻は黒、其扇は青の揃いで。
なのに雨は、朝から無情に降り続けた。
10時ころになればあるいは、午後になればもしかして、と思う其扇をよそに、雨脚は強くなるばかりだ。もう出かけられない。我妻と、どこへも行けない。
「もう今日はやみそうもないな」
「……、……、……」
返事はない。
強く短い、だが規則正しい呼吸音が聞こえてくるだけだ。
「くやしいなあ。丸一日休みだったのに」
「……、……、……」
「IAF開催中はずっといい天気だった分、しょうがないって言えばしょうがないけど」
「……、……、……」
「ぜんぜん降らなきゃ水不足にもなるし……だけど、なにも今日じゃなくったっていいのに」
「……、……、……」
「タイガ、聞いてる?」
話しかけても一向に答えらしい答えが返ってこないのに焦れて、つい声を張った。が、我妻はなおも無言でクランチなる腹筋運動を続けている。
自分で決めた回数がまだ途中なのか、5回ほど上体の起き伏せを繰り返したあと、床の上に座り直して其扇を見上げた。
「聞いてます。でも俺は、そんなに不満じゃありません」
「なんで。タイガだって楽しみにしてただろ。スマホをバイクのナビに使えるように、アームホルダー新しく買ったりして」
「はい。でも俺は、晟尋さんと一緒にいられるならどこでもいいんです」
我妻の口調は淡々と事実を述べているというふうで、気負いの片鱗さえもない。おまけに見詰めてくる瞳が怖いほど澄んでいるものだから、其扇は思わず声をなくす。
――まいるよなあ。
なにがまいると言って、我妻のギャップだ。
いまの、こんな、まるで、そう、其扇のすべてを無条件で受け入れるような静かなたたずまいとは一転して、セックスのときは猛々しく其扇を開き、熱を孕んだ瞳で犯し、荒い息で貪り尽くす。其扇は貪り尽くされる。
どちらが本当の我妻タイガなのか。
――いや、どっちもタイガだ。
我妻は、いつでも全身全霊で其扇を慕う。静にせよ動にせよ我妻のあまりな真摯さに、其扇はいまだ狼狽える。そんな自分の体たらく、覚悟の足りなさなどを叱咤し、ついでに照れるまでがワンセットだ。
むろん其扇は大人なので、心の揺らぎを隠すことに長けてはいるが。
「俺といられればいいって言うけど、その割には俺をほったらかして筋トレばっかしてない?」
――こんなときは、年上風を吹かせてタイガをからかうのに限る。
「大好きな俺が目の前にいるのにさ?」
「それは……今朝は雨でジョギングできなかった代わりに……」
其扇の言葉ひとつ、仕草ひとつに心揺らぐ我妻を見ることで、其扇は落ち着きを取り戻すのだ。
――底意地が悪いよな、俺も。
「雨だから走れなかったんじゃないだろ。夜明けまで俺とやらしいことしてたからだろ」
「う……、……はい……」
「あんなに運動したのに、まだ足りない?」
「いえ、それはそれとして……一日でもワークアウトを休むと、なまりますから」
「そんなもんか?」
「はい。それは自分が許せないんです。晟尋さんを守れる身体でいたいので」
「……」
「あなたのために、もっと強くなりたいです」
ふたたび其扇は声を失う。
――ほんとに、まいるよ。
どんなに其扇が心の揺らぎを隠しても、形勢を立て直しても、結局はすぐにこれだ。まっすぐな我妻の言葉と瞳は、其扇を大人のままでいさせてくれない。
乱される、引きずられる、ほだされる。
だったら、一緒に子供じみたことをしようか。
どうせ、ふたりきりで部屋にこもっているしかない雨の日曜日なのだから。
――俺のかわいいタイガ。
其扇は、我妻の頬を掬い上げるようにしてキスをした。
「晟尋さん……?」
「どうせ雨だし、好きなだけ筋トレしろよ。次はなにをやるんだ?」
「腕立て伏せ10回5セット、ですが……」
「じゃあ始めてみ」
「……? はい……」
いぶかしげな顔をしながらも、我妻は、うつぶせの姿勢になってから両腕を床につく。広い背中が持ち上がる。其扇はそこへ腰をおろした。
「え……、あの」
「俺がウェイトじゃ無理か?」
「いえ。でき、ます」
「なら、はい、スタート」
其扇を乗せたまま、我妻の上体が下がる。上がる。また下がる。その繰り返し。大の男ひとりを加重してどこまでできるかと思ったが、難なく10回をクリアしてしまう。
「おお、すごいな。2セット目いける?」
「はい」
続いての10回も、ペースを保ったままクリア。
我妻が身体を持ち上げるたびみしりと音がしそうなほど張り詰める腕の筋肉に、耳の後ろから首筋を伝う汗に、其扇は見とれる。ふと手を伸ばし、触れてみる。
「……、……あ」
「続けて、そのまま」
「……はい」
3セット目に入ってから、我妻の呼吸に力がこもり始める。うなじから首にかけて、うっすら紅潮している。
――さすがにきついか?
其扇もたしなむ程度ながら、武道経験者だ。トレーニングの知識も多少ある。我妻の身体に過度な負荷がかかるようであれば即座に背中から降りるつもりで注意深く観察する――が。
――あれ……?
たしかに我妻の息は荒い。首どころか、頬まで紅くなってきている。しかし、上下反復のペースは乱れていないし、重みを支える腕も震えてはいないのだ。つまり、運動そのものに無理はない。
となると。
「ふーん……」
我妻の背に乗せた尻に、軽く力を込めてみる。昨夜から明け方まで、我妻の性器を受け入れ続けていた尻だ。収縮させ、緩め、また収縮させる。我妻の背中へ淫靡な動きが伝わるようにしながら繰り返す。
「あ――……、あ」
「タ、イ、ガ? どうした?」
「……晟尋さん……」
我妻が、背中へ流し目をくれる。なじるような、ねだるような、切なげな眼付きだ。
「やっぱりそうか。おまえ、興奮しちゃったんだ?」
「……」
「俺の尻を感じてな? そうだろ?」
「はい……」
「前は? ……もしかして、もう勃っちゃってる?」
「……はい」
素直にうなずく我妻が、いとおしくてならない。夜通し交わってもまだ欲しがることのできる逞しさが、誇らしくてならない。
――本当に、おまえの全部は俺のためのものなんだな。
ストイックに鍛えることも、刺激を受けて欲情することも、性器を熱く固くすることも、なにもかもがが其扇ゆえだ。身も心も、余すところなく其扇のために存在し、機能している。
「俺のかわいいタイガ」
今度は、言葉にしてやった。
この比類なく強健な、それでいて、其扇だけにすべてを捧げる恋人の純情を称賛するために。恋人が差し出すすべてを狼狽えず受け取ることのできるよう、其扇自身の心を補強するために。
其扇は微笑んで、我妻の頬をそっと撫でた。
「あと2セット残ってるぞ」
「……ッ……」
「終わったら、俺をおまえのしたいようにしていいよ。だから、がんばれ」
「……はい――!」
我妻の背中が上下するのに揺られながら、其扇は、鈍色に曇った空を窓ガラス越しに眺めた。
雨は、どうやらやみそうもない。
我妻とふたり、部屋から一歩も出られそうにない。
……
………
…………
……
………
…………
了