文:中条ローザ
2020年6月26日(金曜日)
23時45分
東京都中央区銀座
帝國東都ホテル
エグゼクティブスイート
ともすれば眠りに落ちてしまいそうな倦怠感と虚脱感に包まれながら、白洲は、キングサイズベッドの上に横たわっていた。
さっきまでふたり分の重みと熱を受け止めていたマットレスは徐々に空調によって冷やされ、湿り気さえも失われていき、漣のようなシーツの皺だけが行為の痕跡だ。
――いつものことながら、匂いも残らねえのはどういうわけだ。
抱き合っているときは其扇も白洲もおびただしく汗をかき、体液を放出して絶頂に至る。なのに終わってみれば、其扇晟尋という男の実在さえ疑うほどに残り香というものがない。
そういう体質なのだろうが、しかし、情事に都合がよすぎはしないか。いまのところ白洲は独身だが、仮に妻帯していたとして、匂いによって其扇との不貞が露見することはまずなさそうである。
「だったらシャワーなんざ浴びなくたっていいだろうが」
バスルームから聞こえてくる水音を聞きながら、白洲は独りごちる。声にかすかな苛立ちが混じるのは、このあと其扇が帰っていくのだと分かっているからだ。泊っていくつもりなら、早々に身体を洗う必要もない。
――終わったとたん、はいさよなら、かよ。可愛げのねえ。
だからといって、其扇を引き留める気もない。
もの足りなさを其扇に告げる気もない。
――そういう仲じゃねえからな、俺たちは。
では、どんな仲なのか。
其扇と肉体関係を持って以来、白洲は繰り返し自問するが、答えに至ったためしはない。答えに至る前に考えるのをやめる。
そんな自分の意気地のなさが腹立たしいし、腹立ちをそのまま其扇の肉体にぶつけてしまう自分もさらに腹立たしい。
――優しくしてやらないのに、どうしてあいつは俺の誘いを断らないんだ。
目下の謎は、これである。
少しも優しくしてやらないのに。
マスコミに嗅ぎつけられればスキャンダルなのに。
白洲が一方的に密会の日時を決めても、苦笑いひとつで了承するのはなぜだ。
なぜ、其扇は。
「先にシャワー使わせていただきました、ありがとうございます」
バスルームのほうから姿を現した其扇は、きっちり髪を整え、ワイシャツのボタンを上まで留めてネクタイさえ結んでいる。上着を羽織ればすぐにここから出ていける格好だ。
ついさっきまで白洲の腹の下で身悶えていたとは到底思えない。クリーンでフレッシュな若手議員そのものだ。
「週末は地元の京都へ入らなくてはならないので、今夜はこれで失礼します」
「いまからじゃ下りの新幹線もないだろうが」
「そうですけど、明日の始発に乗りますので」
「はっ、ご苦労なこった。国会議員も楽じゃねえな」
「ええ、まあ」
揶揄めいた受け答えばかりが口をつく。
本当は、こんなことを言いたいのではない。其扇の、なかば呆れたような困ったような苦笑いを見たいのではない。
其扇の睫毛が濡れて震えているところを見ていたかったのだ、もう少し長く。吐息交じりの、低くかすれた喘ぎ声を聞いていたかった。
快楽のぎりぎりの瀬まで追い詰めたときに口走る「武彌さん」という呼び掛けを、もっと、もう一度。
……しかし、白洲と其扇は、そういう仲ではない。考えても名付けようのない間柄ではあるけれど、少なくとも、別れ際の甘い会話を楽しむような関係ではないはずだった。
――煙草、吸いてえな。
これ以上皮肉を言いたくなかったし、ついさっきまで咬み、舐めていた肌を失って口さみしい。
白洲は、無意識のうちにベッドサイドのテーブルの上の煙草を手に取り、一本振り出して咥える。
「駄目ですよ、ここは禁煙です」
爪の先まで清潔に整えられた其扇の指が、咥え煙草を奪っていく。
そんなものすら取り上げられるのかと舌打ちをする。もの足りない。満たされない。白洲の唇は甘いなにかを求めている。
辛辣な言葉も駆け引きめいた応酬も、いまは口の端に乗せたくない。吸い慣れた煙草さえ禁じられているのなら――。
「――……」
「……え? 白洲さ……、ぅわっ」
煙草を奪っていった手を掴み、力任せにベッドの上へ引き倒す。なにを、と言いかける唇を唇で塞ぐ。奥へ逃げようとする舌を舌で追い、絡め取り、吸い、咬む。
――ああ、そうだった。今夜はキスをしてなかった。
もの足りなさの原因のひとつはこれだったのかと、白洲は思う。
関係性に名を付ける前に肉体で繋がってしまったふたりにとって、唇を重ねることは難易度が高い。こんなふうに、勢いを付けないことには。だが、一度してしまえば心地いい。
埋めようもなく持て余していた心の穴が、またたく間になまぬるく満たされていく。
「……ん――……」
「っ、う……。は――……しら、す、さ……ぅ、ん」
息継ぎをする其扇の唇を追いかけて、また塞ぐ。角度を変え、深さを変えてキスを繰り返すうち、其扇の全身からくったりと力が抜けていった。
「……はぁ……」
乱れた息を整えようとしているのか、其扇の胸が大きく上下している。ベッドに倒れ込んだときに乱れた前髪を掻き上げてやると、潤んで焦点の甘くなった瞳が白洲を見上げてくる。
「……なにするんですか、もう。驚かせないでくださいよ」
キスごときで驚かせてしまうのだ。互いに牽制し合うように、申し合わせて避けるように、滅多にしない行為だから。肉欲ではなく、愛情由来のようできまりが悪かったから。
「ほんとにあなたは、私の扱いが雑ですね」
雑になってしまうのだ。優しくしようとしても、なにかが白洲の心にセーブをかけるから。
しかしそれは、必ずしも白洲の本意ではない……と思う。
「好きか?」
「……え?」
「――好きか……?」
のっぴきならない問い掛けにさえ、白洲は、意気地なく逃げ道を作る。「キスが好きか」「白洲が好きか」どちらとも受け取れるよう。
其扇が「好きではない」と答えたとしても、つまらないプライドが保たれるように。
しばらく黙っていた其扇は、ふっと微笑み、頭を少し持ち上げた。軽く、触れるだけのキスを返してくる。
「好きですよ」
「……え?」
「大好きです」
好きなのはキスか、白洲か。どちらとも取れる答え。
其扇の笑みは「どうだ」と言わんばかりの挑発的なものに変わっている。その笑みを見た瞬間、白洲は、其扇のネクタイを引きむしっていた。
「むかつくなあ、おまえ!」
「あははっ。ちょっと、やめてくださいって。私はもう帰るんですから」
「帰すもんかよ。舐めた態度取りやがって」
「だって私、明日は京都へ」
「始発なんだろ。だったらここから行きゃいいだろうが」
「勝手だなあ、もう」
ふたり、ベッドの上で、子犬がじゃれるように転げ回る。其扇の服を剥ぎ、声をあげて笑い、合間にキス。互いに、求め合うように唇を重ねた。汗ばむ手足を絡めながら、何度も、繰り返し。
「お手柔らかに願いますよ。土曜日がお休みの地方公務員と違って、国会議員は土日も地元回りで忙しいんですから」
「一千万都市の首長を地方公務員呼ばわりとはいい度胸だ。生意気口を後悔させてやるから覚悟しろ」
「ひどいなあ。もう少し私に優しくしてくれてもいいでしょ」
その通り、白洲は、其扇にまったく優しくできない。この先もしばらくは、もしかしてずっと、優しくしてやれないかもしれない。それでも其扇は、苦笑いひとつで白洲を受け入れてくれるだろう。
白洲の身勝手はやまないのに。
人目を避けねばならない関係なのに。
――なあ、なんでなんだ、晟尋。
謎解きを、いつか其扇の口から言わせたい。
けれど今夜は、その唇はキスのために。
……
………
…………
……
………
…………
……
………
…………
了