文:中条ローザ
2020年3月14日(土曜日)
11時20分
熊本県熊本市中央区 通町筋
春分の日は一週間も先だというのに、予報によれば熊本市の最高気温は25度を超えるらしい。
5月中旬並の暑さは九州といえども観測史上に例を見ない異常気象だとかで、まだ午前中のいま現在、立っているだけでうなじのあたりがじりじりと陽に灼かれるようだ。
しかしよく晴れている分、熊本城下に広がる繁華街の人出は多い。
投票日を明日に控えた県知事選は、有権者たちの関心も高いのか、街頭演説に足を止め、耳を傾ける人も相当数にのぼる。
――うちの先生が、はるばる熊本まで応援演説に来たんだ。たくさんの人に聞いてもらわなきゃ困る。
三期目を目指す現職72歳の演説のときはさほどでもなかったのに、29歳の中道民自党のプリンスが演台に立ったとたん見物人が増え、群衆がまた群衆を呼んで、いっとき交番勤務の巡査が歩行者整理をするほどになった。
どちらが選挙を戦う主役か分からない有様だが、応援演説では候補者の名を連呼し、在職中の功績をこれでもかと誉めたてたので、役割は十分に果たしたと言えるだろう。
――在京キー局のテレビクルーも来ているし、スマホカメラを向けている人もかなりいるな。
ということは、今日のニュースでは応援演説の映像が流れ、SNSでは動画がアップされ拡散されるだろう。其扇晟尋のハッシュタグでもつけば、そこそこの注目度になる。
――それでこそwin‐winだ。でなきゃ、地元の京都入りをやめてまで応援にくるメリットがない。
蓼丸一貴は、選挙カーの数メートル斜め後ろに目立たぬよう立ちながら、今日も上々の仕上がりだ、と思う。
演説前にのど飴を含ませておいたのがよかったのだろう、拡声器の割れた音質でさえ其扇の声は甘く響く。
あえてわずかに最新トレンドを外したシルエットのスーツは「親しみやすく」「さわやかな」印象を見る人に与えつつ、均整の取れた其扇の身体をアピールする完璧なサイジングだ。
蓼丸がひそかに気に入っている、肩から背中にかけての直線的なラインも際立っている。
そう、いい仕上がりだ。
「蓼丸、ここにいたのか」
午前中の演説を終えて演台を降りてきた其扇が、蓼丸の姿を見つけて歩み寄ってくる。何人もの、何十人もの視線をまとわせながら。笑顔は蓼丸だけに向けて。
「お疲れさまです、先生」
「どうだった? 俺の喋り、噛んじゃったり聞こえにくかったりするところなかったか?」
「問題なしでしたよ。草案から、少しアドリブを入れたんですね」
「聞いてくれてる人たちの反応がよかったからな」
其扇は笑いながら上着を脱ぎ、蓼丸が差し出したミネラルウォーターを一気に半分ほど飲み干した。
「ああ、暑かったですか?」
「実は、かなり。今日は夏日なんだってさ」
「すみません。まさかこんなに気温が高くなるとは思いませんでしたから、ご用意したスーツが裏地付きなんです」
「そんなの、おまえのせいじゃないだろ。東京は15度くらいだったんだから」
いや自分の責任だ、と蓼丸は思う。熊本市の気象予報をきちんとチェックしていれば、其扇に暑い思いをさせすに済んだ。
其扇の仕事着を購入し、TPOに合わせて毎日揃えているのは蓼丸なのだから。
「シャツの背中、ずいぶん汗で湿っていますね。気持ちが悪いでしょう」
「うん、でも、まあ平気。この仕事2年やってるうちに、不思議と顔だけは汗かかないようになったし。だいたい、京都の夏に比べたら全然マシ」
「そうでしょうが、午後も八代市で演説がありますしね……」
蓼丸はしばらく考え込んだ後、ちょっと失礼します、とアーケード街のほうへ身を翻した。
「少々お待ちください」
「蓼丸、どこ行く?」
「すぐ戻りますので」
アーケードへ入って右手に、紳士服の大型店があったはずだ。
演説前、地元商店の共栄会事務所へ挨拶をしに行ったとき見た記憶がある。
――あった。
目的の店に飛び込んで、まっすぐワイシャツ売場へ向かう。
――真っ白の、今日は暑いからクール素材の、襟はネクタイを外してもだらしなくならずカジュアルすぎないスナップダウンの、前立てはできればフライフロントの。
これならよかろうと思うデザインのワイシャツを見つける。次はサイズだ。
――襟周り38センチの、裄丈82センチの。
其扇のサイズなら全身隅から隅まで、靴のワイズ幅まですべて頭に入っている。
たとえ吊るしの量産品であっても、まるでビスポークスーツのように身体に合うものを選び出す自信があった。
まさにジャストサイズのワイシャツを手に取った蓼丸は、ついでにアンダーシャツも併せてレジで支払いを済ませ、急いで其扇のもとへ戻る。
選挙スタッフと話し込んでいた其扇の腕を取り、選挙カーへ連れていく。
「あ、蓼丸おかえりー……、って、え、なに」
「シャツを買ってきました。着替えましょう、いますぐ」
「大丈夫だって言ってるのに」
「私が嫌なんです。先生にはいつもきちんとしていていただきたい」
ワンボックスカーの後部座席へ其扇を押し込む。
窓ガラスはスモークもミラーもかかっていない素通しだが、ポスターやら解体した幟やらが積み込んであるため、外からはほとんど内部を覗けないだろう。
「さあ、着替えてください。下着もありますので」
「はいはい。まったく、本当におまえは俺が好きだな?」
「……」
核心を衝かれて、ぐっと蓼丸は黙り込む。
そして、ああ失敗した、と思う。其扇はどうせ軽口を叩いてみせただけなのだから、蓼丸も軽口を返すべきだった。
重い沈黙によって、もっと重い蓼丸の感情を悟らせてしまいかねない愚を犯してしまった。
「お、クール素材。これいいよな、汗かいてもすぐ乾くから」
しかしさいわいなことに、其扇はどこまでも鈍感だった。
中学生のころからの付き合いである蓼丸が人知れず抱える想いに、屈託に、まったく気付いていなかった。
だから蓼丸の沈黙も、動揺も、まるでなかったかのように流れた。
いま蓼丸が、肩甲骨のあたりのふたつ並んだほくろに歯を立てたいと思っていることも、まだ湿り気の残る肌に触れたいと思っていることも、其扇は知らない。
なにも知らない。
其扇のサイズなら全身隅から隅まで寸分違わず覚えている蓼丸は、その気になれば怖ろしく恥知らずな格好さえも表情さえも、存分に心の中で再現できる。
真昼の街中、其扇の服を透かした裸を思い描くことができる。
そういうふうに見ている。
いつも、いつでも。
たぶん、ずっと昔から。
けれど其扇は、蓼丸にそういうふうに見られていることを、夢にも知らない。
「このシャツ、サイズぴったりだ。さすがだな、蓼丸」
「見せてください。……いや、少し襟が浮いてますね。先生、痩せられたのでは?」
「そうか? そんなことないと思うけど」
「いいえ、間違いありません。近ごろ、お忙しくて食事を適当にすませることが多かったからでしょう。そういえば、少し頬の肉も落ちたかも」
其扇の襟元を、角度を変えてあちらこちらから確かめる。そんな様子をじっと見詰めてくる視線に気付き、蓼丸は、怪訝さの滲む声で問い返した。
「なんでしょう?」
「すごいな、おまえ。俺のどんな変化でも見逃さないんだ」
「それはまあ。幼馴染でもあり秘書でもありますからね」
「うん、そうだな。ものすごく優秀な秘書だと思うよ。だから、おまえにはめちゃめちゃ感謝してる。でも、それにしたってさ……」
鈍感なままであってくれ。
蓼丸の献身を、いつも、ぬけぬけと、当然のように受け取る其扇であってくれ。
「……おまえ、ほんっと、俺が好きな?」
蓼丸は、どう答えるべきだろう。
……
………
…………
……
………
…………
……
………
…………
了