文:中条ローザ
2020年5月6日(水曜日)
23時45分
永田町から赤坂へ
運転しながら我妻タイガは、後部座席に坐る其扇晟尋の表情をルームミラー越しにそっと眺めた。
車は交差点に差し掛かってビル群が途切れ、左手にテロ事件被害者追悼のため白一色でライトアップされた東京タワーが見えるはずだが、其扇はシートに深く凭れかかってじっと目を閉じたままでいる。
永田町から其扇の住まいである議員宿舎まで、車なら数分しかかからない。だから眠ってしまっているわけではないだろう。
其扇は疲れているのだ。
大臣となった其扇のスケジュールは、殺人的と言ってもいい。朝8時前から日付が変わろうかという深夜まで、まさに分刻みで動いている。
それなりに鍛えていると自負する我妻でさえ、其扇のボディガードとして随行したこの3日間は、公安の研修期間に劣らないハードさだったと思う。
――けど、俺はまだマシなんだ。
我妻なら、ただ身体を使えばいい。あるいは、迫る危険や敵意に対して警戒を絶やさずにいればいい。いずれにせよ、いまの主である其扇を守るため、ひたすら動物的な感覚を研ぎ澄ませていれば、それでいい。
しかし其扇は、国家未曽有の非常時に任命された大臣だ。膨大な書類を読んではサインし、会議をし、要人と会い、組織へ指示を下す。決断する。合間にマスコミの取材を受ける。取材でなくとも、大半の時間はレンズにフォーカスされている。
目下其扇は、すさまじい頭脳労働を強いられているうえ、常に周囲の視線にさらされているのだ。疲労は、早くも極限になっているだろう。
――体調を崩されなければいいが。
先ほど、其扇の瞼に青黒い影がミラー越しで見えたのは、車窓に流れる街の灯りの干渉か。仕立のいいスーツに包まれた上半身がひどく薄く見えたのは、後部シートが柔らかすぎて沈み込んでいたせいか。
――早く送り届けなくては。
1分1秒でも早く、其扇を休ませてやらなくては。
永田町から赤坂へ。2キロたらずの道のりを、法定速度ぎりぎりまでスピードを上げ、我妻は重いステアリングを操る。
「大臣。ご自宅に到着しました」
衆議院議員宿舎の駐車場に車を停め、我妻は背後へ声をかける。
「うん」
やはり其扇は眠ってなどいなかった。少しばかり充血した、それでも覇気と明朗さを失わない瞳が我妻を見返してくる。
エンジンを止めても其扇が動かないのは、まずは我妻が周囲の安全を確認するのだと承知しているからだ。駐車場入口の植栽の陰、ほかの車や柱の裏、エントランスまでのルート。そのすべてに、見慣れぬものがないか不審な人物がいないか、我妻は視線を巡らせる。
大丈夫だ、と肯いた。其扇を脅かすものの気配は窺えない。
「どうぞ、お降りください」
「うん」
防弾ガラスと装甲鉄で覆われた後部座席ドアを我妻が開く。わずか3日でかしずかれることに慣れた其扇が、ゆっくりと降りてくる。疲れて足取りが重いのだろう、が、我妻の眼にはその様がこの上なく優雅に見える。主の風格を感じさせて誇らしくもなる。
「お部屋までお供します」
「うん」
外部から見て、ボディガードの死角に主がいるという立ち位置は、其扇も我妻もすっかり習慣付いた。
何者かの襲撃を受ければ、我妻が其扇を胸に抱えて伏せながら、携行したH&K P2000を利き手で抜く。我妻には、いつでもその覚悟がある。そのときは身を任せてくれと其扇にも伝えてある。
其扇に随き従って歩く際の緊張感は、我妻にとってこよなく甘い、が、エントランスからエレベーターを経て其扇の部屋のドアまでは、ほんの2分ほどなのだ。
――ああ、今日が終わる。
Watchdogとしての務めが終わってしまう。ドアの前まで、施錠した音を聞き届けるまで、というのが訓えだ。
「では、ここで失礼します。明日は朝8時にお迎えにあがります」
其扇は「うん」とは答えなかった。
我妻を見詰めるのを躊躇わない瞳が、まっすぐ向けられてくる。
「今日もありがとうな。我妻君も疲れただろう」
「……任務ですから」
「そう言うと思ったよ」
ふいに与えられた、ねぎらいの言葉。いたわりの仕草。
それが我妻にとってどれだけ価値を持つと、其扇は知っているのかどうか。図りかねて我妻は、躾の行き届いた無表情を崩すことができない。
「でも、こんな夜遅くに帰すのは心配だな。眠気覚ましにコーヒーでも飲んでいかないか?」
――貴方が誰より疲れているだろうに。
――俺など、思い遣ったりせずともいいのに。
――ただ、主らしくしていていいのに。
――命じればいい、主らしく。
嬉しいのかもどかしいのか、もう分からない。答えかねて我妻は、甘える機を逸してしまう。
「お気持ちだけで結構です」
其扇は、ふっと笑った。明朗な瞳に、なにがしか、強い光がよぎったようだった。
「分かった。じゃあ、礼はまたいつか。……明日も頼むぞ、タイガ」
我妻はもう、声も出せない。黙って頭を下げたまま、ドアロックとチェーンのかかる音を聞く。しばらくそこに佇んでから、我妻は、昂揚のために覚束ない足取りで駐車場へ戻っていく。
――礼などいらない。
タイガと呼んだあの声で、我妻は悟った。
ほしいのは命令だ。我妻を獰猛かつ忠実な犬に変える、主のたった一言――タイガ。
ほしいのは所有を示す首輪、帰属を示すマイクロチップ――代わりに、咬み痕を首筋にくれ。あるいは内腿にくれ。身も心も、主のものであると思わせてくれ。
――うまく命令を果たせたら、褒美をくれ。
Goodboyと尊大に褒めれ、形ばかりひと撫でされ、そのうえで主が与えてくれるなにかを、我妻は熱望する。主だけ、ほかの誰にも繋がれない絆を我妻は渇求する。
所有されたまま、愛されたい。
愛することを命じられたい。
その印が、なによりもほしい。
「……明日も、貴方のために」
暗い駐車場から其扇の部屋の灯りを見詰め、我妻は静かに呟いた。
了