文:中条ローザ
2020年3月13日(金曜日)
13時15分
東京都港区六本木
東郷ツーリズム株式会社
東京本社 営業本部長室
電話口で散々ごねてはみたのだが、生粋の京都人であり海千山千の商売人である父には結局のところ敵わない。
東郷遊馬は遅くにできた三男坊で、長兄次兄とも齢が離れているために相当甘やかされている自覚はあるものの、だからといって父の本気の命令を拒み通せるわけもなかった。
「分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
押しても引かぬ父の粘りにあきらめて、遊馬は、捨て台詞めいた受諾で通話を切り上げた。受話器がフックスイッチに乗る直前、漏れ聞こえてきた「はっはっは、じゃあ頑張れよ」という父の満悦の声もいまいましい。
「はー……冗談じゃないぞ……」
デスクに突っ伏し毒付くことができるのは、いち本部長でありながら個人の執務室を与えられているからだ。つまりは、経営者一族だからだ。
なにかにつけ優遇されている分、果たさねばならない義務もある。分かってはいるのだが。
長々と溜息をつく遊馬へ、成り行きを見守っていた秘書がそっと問いかけてきた。
「本部長。社長はなんておっしゃったんですか?」
「これからは、親父が支援している政治家の対応も俺がやれってさ。で、さっそく来月、その政治家先生が参加している勉強会へ顔出してこいって」
「あら、それは……」
社歴12年になる秘書は、その説明だけでおおよそを察したらしい。
会社経営や仕事そのものには人一倍の熱意をもって臨む遊馬だが、政財界の付き合いや駆け引きは根っから苦手、というより嫌いだということ。東郷グループオーナーである東郷正晴は、いよいよ遊馬を後継者とする決意を固め、重要な人脈を託すのだということを。
普段おっとりと落ち着いた秘書も、事態が意味するところを悟って緊張の面持ちだ。目の前にいる上司が遠からず社員1万人のトップに立つのだと思えば、さもあろう。
「4月30日、午前10時に衆議院議員会館だそうだ。スケジュール表に入れておいてくれるか」
「かしこまりました」
控えめだけれど有能な秘書は、きっと、このあとすぐ上司のスケジュール表に「政界関連」というタブを新しく作るだろう。そしてこれから、そのタブには多くの予定が書きこまれていくのだろう。
そんなふうに、遊馬が追うべき義務と地位は重くなっていくのだろう。
――そのこと自体、拒むつもりなんかない。
長兄と次兄を差し置いて、三男の遊馬が後継者と目されることは、すでに暗黙の了解のうちだ。遊馬が兄たちを蹴落としたわけではない。
遊馬が而立を迎えた3年前、ほかならぬ長兄の正宗から「親父はおまえを次期社長にするつもりなんだから、そのつもりでいろよ」と言われたのだ。
「俺は、役員としておまえを支えるから」とも。そのとき長兄は、いとおしさに満ちた瞳で遊馬を見つめていた。
――大事な家族から託された役目なんだ。やってみせるさ。
よき弟、よき息子であること。
よき経営者になること。
いつか、よき夫となり、父となって、両親に孫の顔を見せること。
遊馬が負うべきものは、日ごと年ごと嵩を増す。苦手とは言っていられない。重いなどとは、けっして思ってはならない。
――しっかりやらないとな。親父や兄貴たちが培ってきたものを、俺が台無しにするわけにはいかない。
とりあえず、直近で顔を合わせることになる政治家について、ざっと調べておこう。父は電話でなんと言っていたか。
そう、其扇晟尋だ。
父に同伴して行ったパーティで、一度だけ見かけたことがある。が、どんな経歴を持っているか、どんな人となりかは知らない。
――やたら童顔だったことは覚えているけど……。
デスクトップパソコンで「そのぎあきひろ」と入力してみる。検索結果のトップに出てきた本人の公式ホームページアドレスをクリックする。
――俺より4つも年下……まだ20代じゃないか。
29歳というのは政治家として極めて若いが、笑みを浮かべた写真は29歳という年齢よりもっと若く見える。趣味のいいスーツを学ランに変えても、なんの違和感もなさそうだ。
公式ホームページはそのままに、ブラウザの別タブでニュース記事やSNSを見てみる。10回ほどクリックを繰り返しただけで、其扇は、女性に根強い人気を有しているらしいと分かってきた。
――まあ、好感度の高い顔だからな。クリーンで、頭も悪くなさそうに見える。
数分後にたどり着いたページでは、テーブルに山と積まれたチョコレートを前に、やや困ったように笑う其扇の写真があった。どうやら、バレンタインデーの時期に公開された女性週刊誌の記事のようだ。
――芸能人でもないのに、こんなに女性ファンがいるのか。
其扇とともに映っているチョコレートの数は、遊馬が社内外の女性からもらう数よりもはるかに多い。が、うらやましいとは思わなかった。不特定多数であろうと特定のひとりであろうと、女性から好意を寄せられたところで――……。
「ホワイトデーが大変じゃないか」
女性から好意を寄せられたところで――応えられない、と呟いてしまいそうだったのを、長年の警戒心から、どうにか一般的な所感に言い換えることができた。
「あの……そのことですが、本部長……」
遊馬の独り言を受けて、秘書が話しかけてきた。
「ん? なに?」
「明日の夜、松濤のフレンチレストランでご会食の予定が入っています。明日はホワイトデーですから、お花かお菓子をお持ちになってはいかがですか」
「……あ、ああ……そうか……」
「バレンタインデーにチョコレートをいただいていたようですので。きっと先様もお喜びになると思います」
遊馬の心は、一気に沈む。
次期社長と遇されることが父と兄からの期待なら、こちらは母からの期待そのものだ。
今年の初め、もう何回目かも定かでない見合い写真を母から手渡され「一度会うだけでもいいから」と言われて断れずに見合いをし、バレンタインデーに相手と会い、次の約束を明日3月14日にしていたのだった。
一か月前に受け取ったチョコレートは、遊馬がひとりで住まうマンションのクローゼットに、リボンも解かずにしまってある。日ごと日ごとに重さを増して。
どうしたって応えられないのに。
期待に沿うことなどできないのに。
よき弟、よき息子、よき後継者にはなれたとしても、よき夫よき父になどなれるはずもないというのに――……。
……こみ上げる苦いものを呑み込み、遊馬は、財布から数枚の紙幣を抜き出して秘書へ渡した。
「じゃあ、悪いけどヒルズにでも行って、適当なものを見繕ってきてくれないか」
「え……私が選んでよろしいんですか?」
「俺より君のほうが、女性の喜ぶものが分かるだろう? 頼むよ」
「……かしこまりました。いますぐ買ってまいります」
短い沈黙のあと、秘書は紙幣を受け取って本部長室を出ていった。
秘書がなにを言いかけてやめたのか、遊馬にも分かっている。相手の女性を想うなら、自ら店へ足を運んで贈り物を選ぶべきだ……と言いたいのだろう。
その通りだ。このまま付き合いを続け、いずれ結婚するつもりならば。
――けど、どうせ断るんだ。これ以上重いものを抱えたくない。
申し訳ないと思う。過去に断り続けてきた縁談の相手たちにも、明日会う相手にも。遊馬がいつか家庭を持つと疑ってさえいない両親にも、兄たちにも。
重いものを抱えたくなくて、そのために重ねる嘘とごまかしによって、遊馬の抱えた秘密はどんどん日ごとに重くなる。隠し場所はいっぱいになり、いつまで隠しておけるのか。
いつか溢れてしまうのではないか。
知られてしまうのではないか。
期待をかける息子は、弟は、同性しか愛することのできない男だと。
――いや、隠し通さなくちゃならない。大事な家族のためだから。
まだ昼過ぎだというのに、激務の一日を終えたように疲れた。
高機能チェアに深くもたれかかりながら、遊馬は、開きっぱなしのブラウザをぼんやり眺める。
そこには、たくさんの女性からの好意を臆面もなく受け止めて、それでも高感度を失わない青年の顔がある。
「――あんたは……どんな女性を選ぶのかな……」
そんなに晴れやかに笑えるのなら、そんなに日向を歩いているのなら、遊馬の閉じたクローゼットを開けてくれてもいいんじゃないか。重いものは捨ててしまえと言ってくれてもいいんじゃないか。
――それができないなら、放っておいてくれればいい。
画面の中の笑顔を見ていることがなぜだかひどく苦しくて、遊馬は、パソコンのブラウザを閉じた。
……
………
…………
……
………
…………
了