文:中条ローザ
2020年3月27日(金曜日)
6時10分
東京都文京区本駒込
白洲邸
春分の日も過ぎて、朝夕のテレビニュースには「今日の開花状況」の情報が流れるようになった。
寝室の窓から見える庭の桜も満開には至らぬ6分咲き程度ながら、樹そのものが薄紅色の霞をまとっているように見える。
桜は、戦前になんとかいう宮様から若木を賜り、苛烈を極めた空襲でも焼け残ったというソメイヨシノだ。
――「桜のお茶会」は、来週の何曜日だったかな。
白洲武彌は、起き抜けの頭で考えて、少しばかりうんざりした。祖母が毎年この時期、政財界要人の夫人や令嬢あるいは文化人などを招いて観桜会を兼ねた野点を行うのだが、準備にあたって、祖母は「たけさん、毛氈の折り皺を伸ばしてちょうだい」「たけさん、納戸からお道具を出しておいてちょうだい」などと、孫の白洲をいいようにこき使う。
――これで当日、雨なんか降ってみろ。野点傘の設置までやらされるに決まってる。
防衛庁に勤務していた去年までなら年次休暇を取ればよかったが、今年はいきなり雑用を言いつけられても、そう簡単に対応できない。なにしろ白洲は、首都の自治をあずかる東京都知事なのだから。
――来週の天気はどうなんだ。
白洲はベッドに寝そべったままリモコンを操り、壁掛けにしたテレビをつけた。
週間天気予報をやっている番組はないかとザッピングする。と、一瞬引っかかるものを感じてチャンネルをひとつふたつ戻す。
「こいつかよ……」
引っかかりの正体がテレビ画面に現れ、再びうんざりする。
与党・中道民自党の衆議院議員、其扇晟尋だ。
番組の中で、其扇は、つい先日行われた参議院選挙において自陣の候補者の応援演説を精力的に行い、みごと民自党を勝利へ導いた立役者のひとりとして紹介されていた。ご丁寧にも、其扇を語る枕詞「イケメン若手議員」のテロップ付きで。
「朝から見たくない顔だぜ」
なにが勝利の立役者だ。たいした実績もないくせに、若いというだけ、ほんの少しばかり整った顔をしているというだけで持てはやされている。
「俺のほうがよっぽどイケメンだと思うがねえ」
捨て台詞じみた独り言をつぶやきながら、白洲は、テレビの電源をオフにする。まったく朝から幸先が悪い。ならばとスマホのブラウザを立ち上げると、こちらもニューストピックス画面に「其扇議員 増す存在感」などというタイトルが目に飛び込んでくる。
うんざりの三度目だ。
気分を切り替えようと、枕もとのサイドテーブルから煙草を取る。母や妹から再三再四、ベッドで煙草はよくないだの火事が怖いだのと言われているが、知ったことか。古いジャズのナンバーではあるまいし。
――外じゃめったに吸えない風潮なんだから、家の中くらい好きに吸わせろってんだ。
愛飲の銘柄はトレジャラーブラック。普段はライターも使うが、目覚めの一服だけはマッチで火をつけると決めている。温度の低い炎でつけたほうが、この銘柄の独特な味が引き立つからだ。
「あー……美味ぇ……」
雑味の少ない、重厚で仄かに甘い煙をいっぱいに吸い込む。一瞬くらりときて、それから血流に乗ってニコチンが全身へ回っていくのを実感する。微量のアルカロイドによって細胞が活性化するような気がする。この感覚は、なにものにも代えがたい。はやりの電子煙草では、とうてい味わえない恍惚だ。
ぎっしりと葉が詰まっているから、吸うのにたっぷり5分はかかる。あたたかく馴れたベッドと、窓から差し込む朝の陽差し、芳醇の香気。至福の5分は、白洲の心身をゆっくりとスリープモードからオンモードへ変えていく。
「よし、起きるか」
寝間着を脱ぎ捨てバスルームへ向かう。
防衛省を辞めて政界入りしたとき「夜中に帰ってくることも増えるだろうから、寝ている家族を起こさないために」と家庭内実力者である祖母や母を説き伏せ、寝室に直結したバスルームを増築したが、つくづく正解だったと思う。
入浴時間のやたら長い女たちを待つというタイムロスがない。
熱いシャワーでさっぱりしたところへ楽な家着を身につけ、ついでにもう一本煙草を吸う。それでもまだ7時には間がある、が、もうダイニングへ行くことにしよう。
白洲邸は純和風の造りだが、家族が食事をするダイニングとキッチンだけは女たちの使い勝手がいいように最新設備を備えた洋風になっている。
おはようございます、と白洲が声をかけながらダイニングに入ると、三代の女の声が重なって返ってきた。
「おはよう、たけさん」
「おはよう、武彌」
「おはよう、お兄様」
順番に祖母、母、妹だ。
母と妹は親子なのだからともかく、姑と嫁であるはずの祖母と母も昔から異様に仲がいい。
「ん? お父様とおじい様は?」
「そろって出掛けたわよ。朝霞ですって」
と、母。
朝霞ということはゴルフだ。葉山ならヨット、代々木なら乗馬など、家族だけで通じる言葉は他にもたくさんある。
「ああ、朝霞ですか。俺もずいぶん長いこと行ってませんね」
しかし朝霞か……朝霞といえば、例の事件が起きた土地でもある──……。
「たけさん。俺なんて、その辺のごろつきのような言い方は感心しませんよ」
と、祖母。
政治家としての思料に耽りかけた白洲を、急に孫息子の立場に引き戻す。口の悪さは祖父の祖父つまり高祖父からの江戸っ子である白洲家の男子全員の属性なのだが、金沢市の素封家から嫁いできた祖母には、べらんめえがひたすら粗野に聞こえるらしい。
逆らったところで白洲が敵うわけもないので、素直に「すみません、おばあ様」と謝っておいた。
父と祖父がいないのでまだ誰も読んでいない新聞紙を手に取って、ざっと時事をチェックする。
ひとつの事案に対する異なった視点を見比べられるよう、いくつかの新聞を取っている。
祖父から父そして白洲へと受け継がれている習慣で、小学校を出たころから一日も欠かしたことがない。
すると、出ていたのだ。
其扇晟尋のインタビュー記事が、カラーの写真付きで。しかも、記事の締めには、同じく「注目の若手政治家」というくくりで白洲武彌の名前がある。
――冗談じゃねえ、一緒にしてくれるな。
白洲のうんざりは早くも四度目をカウントした。
まったく気に食わない。気に入らない。いや、気に入らないというより目障りだ。
同じ若手というが、其扇は白洲より5歳も下だ。2~30歳代での5歳差なら、ひと世代違うと言っていい。経歴も違う。其扇はまだなんの政治的トロフィーもない元サラリーマンの一議員。白洲はキャリア官僚を経ての東京都知事だ。実績と実力で白洲が負けるわけもないし、そもそも其扇と同じ土俵に上げられるのさえ心外だというのに、どいつもこいつも。
――俺が野党陣営から知事に当選したことも、マスコミが面白おかしく書く理由なんだろうが。
与党の若武者VS野党のプリンスというわけだ。
マスコミのそうしたゴシップ的な比較論調は、白洲が取り組んでいるさまざまな方針などまともに報じていない。都知事に就任して半年、待機児童問題や海抜ゼロメートル地域の盛り土の予算確保、少子高齢化対策など、白洲がテコ入れをして改善へと向かいつつある事案ならいくらでもあるはずなのに。
そう、それに、あの自衛官自殺事件にひそむ政治の闇を国民に喚起したことだって――……。
「お兄様、煙草くさいわよ」
と、妹。
高度な政治的思索を巡らせていた白洲の意識は、妹から手渡された味噌汁椀によって、突然お茶の間へと引き戻されてしまう。
「自分の部屋で吸ってるだけなんだから放っといてくれよ。だいたい、お父様だっておじい様だって吸うんだからいいだろ」
「お兄様のためを思って言ってるの。いまどきスモーカーなんて、好感度を下げる要因にしかならないのよ。都庁だって全面禁煙にしたんでしょ? 言い出した知事がスモーカーじゃ格好つかないんだから、禁煙したら?」
全面禁煙にしたのは俺じゃねえ、前の知事だ……と言い返したかったが、夫人同伴のパーティなどで、未婚の白洲のパートナー役を務めてくれたりしている妹には、あまり強くも出られない。
仮に言い返したりなどすれば、女三代がタッグを組んで攻撃してくるに決まっている。祖父と父の不在が恨めしい。
あきらめて炊きたての白飯を掻き込む白洲の前を、母の優美な腕が横切った。テレビのリモコンを取って、電源を入れたのだ。
「あら、この子」
「そうね、民自党の」
「京都から出た人よね」
――ああもう、またかよ。
またしても其扇晟尋だ。
参議院選挙結果が出た直後、与党勝利の興奮を抑えようとして抑えきれない状態の其扇へのインタビューの再放送だ。この映像なら何度も見た。かすかに紅潮した頬の丸みも、子供のようにくりくりと動く瞳も、全部覚えている。
――なんなんだよ、今日は。そういう日なのか。避けられねえのか。
起床から一時間もたっていないのに白洲のうんざりは早くも五度目で、うち四度は其扇によるものだ。
飯がまずくなるからテレビを消してしまいたい。
が、女たちが盛り上がっているので耐えるしかない。そもそも白洲家では、茶の間のチャンネル権は女たちのものなのだ。
「かわいらしい顔してるわよね」
「若いけど、二世じゃないんでしょ?」
「確か、お父様が京都府議会の議員さんだったはずよ」
「じゃあ国政へはひとりで? 偉いこと」
――頼む、早くテレビ消してくれ。
この映像は何度も見たから知っている。見るたび忌々しくなるから覚えている。最後のほうに、とくに聞きたくないくだりがある。だから早く、消してくれ。
そう思うのだが、チャンネル権がない白洲は黙るしかない。
テレビの中の其扇が、インタビュアーの質問を受けて答える。わずかに戸惑ったような、しかし、女性の母性本能をくすぐる(らしい)微笑みで。
『え……白洲都知事、ですか? はい、よく比較されることが多いみたいですけど、そんな……まだお会いしたこともないですし、私とは仕事も違いますので……』
――こっちこそ顔を合わすつもりなんかねえよ。どうせ違う場所にいる俺とおまえだ。
憮然として朝食をとる白洲を、祖母と母と妹が薄笑いで見ている。
其扇晟尋はともかく、家刀自三代に敵うわけのない白洲は、本日六度目のうんざりを味噌汁とともに呑み込んだのだった。
……
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了