文:中条ローザ
2020年3月27日(金曜日)
15時20分
東京都千代田区永田町 新衆議院議員会館
其扇晟尋 事務室
春分の日も過ぎて、朝夕のテレビニュースには「今日の開花状況」の情報が流れるようになった。
窓から見える山王日枝神社の桜も満開には至らぬ6分咲き程度ながら、境内の木立ち全体が薄紅色の霞をまとっているようだ。
――嵐山や清水さん、哲学の道の桜はもう咲いただろうか。
其扇晟尋はふと、出身地であり、政治家としての「地元」である京都の桜について考えた。
華やかで粋な東京の桜に対し、同じソメイヨシノでも京都の桜は艶やかでゆかしく感じられるから不思議なものだ。
――今年は見そこねてしまいそうだな。
つい一週間前まで参議院選挙の応援のため足繁く京都へ帰ってはいたものの、そのころは盆地の冬特有の意地悪い寒さが居座っていて、蕾はまだ固かったはずだ。
候補者も応援演説する議員も街頭演説ではコートを着ないから、身体の芯まで冷え切って、桜のことなど考えもつかなかった。
だが、もう春なのだ。
与党・中道民自党が参議院選挙に勝利して数年来の衆参両議院のねじれを解消したこの春、郷里の桜は見られそうもないが、其扇は無事、衆議院議員として二期目を迎えていた。
「先生、どうなさいました?」
「あ、うん」
デスクから窓を眺めたまま黙り込んだ其扇へ、蓼丸一貴が声をかけてくる。その声が、10年ほどまえの「なあ、おまえ宿題やってきた?」などという問いかけと響きが似ていて、つい気の抜けた答えを返してしまう。
しかし当然、立ったまま其扇の背後に控える蓼丸は、頬の丸みを残した学ラン姿の高校生ではなくて、仕立がいいけれど地味なスーツをきっちりと着込んだ秘書である。
「5分ほどお休みになりますか? 問題ないようでしたら面会の方をお通しいたしますが」
「大丈夫、ちょっと外を見てただけだ」
いまは来客対応の真っ最中だ。
13時から20分刻みで面会しているから、次で5人目の来客……といいながら詰まるところ要件はすべて陳情で「先生のお力でひとつ」と枕詞をつけて、融資の口利きだの各種許認可の口添えだのを頼み込まれる。時には子女の就職あっせんや、ひどいものになると近所の騒音問題まで持ち込まれることもある。
が、どんな頼みごとであっても邪険にするわけにはいかない。なぜなら彼らは其扇の支持者であり、ひとたび選挙となれば投票を頼み込むのはこちらになるのだから。
気を取り直して、蓼丸へ確認する。
「それで、次はどなただって?」
「嵐山エンジニアリングという会社です。先生にご挨拶したいとのことですが」
知らない会社だ。しかし、ついさっき考えていた地名が冠されているということは、京都の会社なのだろう。其扇にとって貴重な票田になるかもしれない。
「挨拶ね。それって、ただの挨拶じゃ……」
「ないでしょう、おそらく」
其扇は壁に貼ってある自身のポスターをちらりと眺め、つとめて同じ笑顔を作った。フレッシュでクリーンな、若手議員の笑顔である。
蓼丸はそんな其扇に満足したように肯いてから、事務所スタッフへ命じた。
「次の方をお通しして」
入ってきたのは、ふたりの男性だった。
ともに50代後半に見える。其扇からすれば父親世代だ。ポスター通りの微笑みをキープしながら、彼らと向き合う。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。其扇晟尋です」
「このたびは、お忙しいところ其扇先生にお時間とっていただき、ありがとうございます」
差し出された名刺には、建設会社の代表取締役社長と取専務取締役の肩書があった。もともとは医療系ITだったが、数年前から多角化の一環として建設部門を立ち上げて法人化した。社名から其扇が想像した通り、創業の地と会社登記は京都・嵐山だが、数年前に実質的な本社機能を東京・品川へ移したのだという。
くどくど続く会社概要説明で、其扇は、彼らの面会の目的をあらかた察する。
――東京や建設業界にはまだパイプやコネクションが少ないから、いざという時の便宜を俺にはかって欲しい、というところかな。
たとえば建設地の近隣住民とのトラブル処理や、地方公共団体での施設建設入札への参加など、国会議員との繋がりが有利に働くケースはいくらでもある。自社の式典などでは、国会議員から贈られた花輪があれば箔もつくだろう。
それなりのうまみがあるからこそ、彼らは、すすめたソファへ座ろうともせず、息子のような年齢の其扇へ頭を下げるのだ。
「其扇先生とは今後とも懇意にしていただければと」
「こちらこそ、やっと議員二期目の若輩者ですが、よろしくお願いいたします」
「とんでもない。其扇先生は大変熱意のある方だとうかがっております」
そう言って嵐山エンジニアリング社長は、並ぶ専務に「あれを」と囁いた。専務が鞄から何かを取り出す。
社名ロゴも宛名書きもない、いわゆる長3型の茶封筒だが、妙な厚みがある。微笑みを張り付かせたままの其扇の顔がかすかに強張った。
――これは……。
中身はおそらく現金だ。しかも、銀行の帯封がついたままの。
とっさに蓼丸と目配せを交わす。蓼丸が視線だけで同意と了解を示した。蓼丸は影のように静かにドア口まで行き、やはり視線だけでドア近くのデスクにいるスタッフたちへ席を外すように指示をする。スタッフたちも心得たもので、速やかに席を立って出ていく。半開きだったドアがぴったり閉ざされる。ここまで、ほんの数十秒だったろう。
事務室には社長と専務、そして其扇と蓼丸だけになった。
茶封筒は、誰も何も言及しないまま、まるであらかじめそこにあったかのように其扇のデスクに置かれている。
――さて。
ここからが肝心だ。
足元に気をつけなければ。そして状況を確かめなければ。
何しろ其扇のいる政界は、落とし穴と罠だらけ。国と国民のためだけに注力していては、知らぬ間に足をすくわれかねない。
其扇は、自分の声と表情にいっそう謙遜が滲むよう意識しながら、嵐山エンジニアリング社長へ問いかけた。
「ところで、社長。本日は私の地元である京都商工会議所からのご紹介でおいでいただいたと秘書から聞いておりますが」
「ええ、その通りです」
「その際、私への『ご挨拶』についてアドバイスを受けられたと思うのですが……どちらから?」
ご挨拶、という言葉に、ほんの少しのアクセントをつけてみた。普通の理解力なら、質問の意味が分かるはずだ。この札束は誰の入れ知恵で持ってきたのか、と。
社長は、専務ときまり悪げに目を見交わしたあと口ごもりつつ答えた。
「ユーアイ建築設計さんです」
――やっぱりな。
心の中で苦笑した。
其扇は与党・中道民自党の衆議院候補として京都3区で当選したが、京都のほかの選挙区では、地元企業と結び付いた野党が強いところもある。ユーアイ建築設計は、まさに野党支持の地元有力企業で、いわば其扇の対立候補のスポンサー企業だ。
――特に野党の菅田先生との繋がりが強かったはず。
菅田議員は、野党の中でもそこそこの実力者だ。つまり資金潤沢な支持団体を持っている。政界の慣用表現であれば、大きな「カバン」を持っている、とも言う。
野党議員の「カバン=金づる」である企業からの入れ知恵ということは、目の前の社長はユーアイから「知らぬまま利用されている」と見ていい。そこには、菅田議員の思惑も少なからず及んでいるだろう。
――となれば、罠だ。
仮にいま、其扇が茶封筒に目をとめて受け取ってしまったとする。すると半年後か一年後、でなければ次の選挙直前に、週刊誌から汚職のスクープとしてすっぱ抜かれるのだ。結果、其扇は選挙で負ける。もしくは辞職を余儀なくされる。
ある意味こんなベタな策が通用してしまうほど、建築およびゼネコン周辺は、権益と既得権と裏金がものをいう旧態依然の業界なのだ。
――見なかったふりを通すのがよさそうだな。俺のためにも、目の前の社長のためにも。
なあ? という意を込めて、秘書の蓼丸へアイコンタクトする。その通りです、と蓼丸の瞳が答えた。
「社長のお話は承りました。今後とも末永くお付き合いいただければと思います」
面談予定時間の20分が過ぎました、という暗の意味を込めて其扇は言った。それも入れ知恵されていたか、社長と専務は深く礼をして立ち去りかける。彼らの顔には、首尾上々と思っているのか安堵の色が浮かんでいる。
だが。
「お忘れものです」
ドアを開けるため先回りした蓼丸が、例の茶封筒を専務の手に押し付けた。えっ、と振り返る彼らへ、蓼丸はフレッシュでクリーンな笑顔と声で答える。
「次はぜひ、手ぶらでおいでください」
「……」
唖然とする彼らを、蓼丸が行き届いて優雅な仕草で送り出す。
ドアの閉まる音と同時に、其扇の表情は素に戻った。ついでに深い溜息も出た。
「――ふう……」
「お上手です、先生。うまくかわしましたね」
「2020年の今時、茶封筒で実弾とはアナクロだよなあ。あれ、どのくらい入ってたと思う?」
「瓦一枚かと」
やはり政界の慣用表現では、帯封つき100万円のことを「瓦」と言う。これが1000万円なら「レンガ」だそうだ。以前、蓼丸が教えてくれた。
その蓼丸は、さっそく手元のスマホで嵐山エンジニアリングを検索している。蓼丸のスマホには、上場企業の金融・株式情報が調べられるアプリがダウンロードしてあるのだ。
「建設部門法人の資本金は一億円。今年の夏に東京大会が行われる例の国際イベントの特需を狙って、4年ほど前に立ち上げたようですね」
「もとはIT企業となると、建設業界のしきたりやお作法に戸惑っただろうなあ。何しろ体質が古いから」
「嵐山エンジニアリングは、そこに付け込まれてスキャンダルの時限爆弾に仕立て上げられたのではないかと」
蓼丸は、完全に「悪意の第三者」による仕業との前提で話している。まあ、実際その通りなのであろうが。
「さっきの社長さんも被害者だよ。……とはいえ、この手のトラップは二度目だ」
「三度目です。先生のお耳に入れる前に私がブロックした一件もございましたので」
「だったらなおさら、悪意の根元に対して手を打たないとな」
はい、と蓼丸が冷ややかに微笑む。
「先生のご対応のおかげで、出処の見当はつきました。あとは裏付けと証拠が欲しいところです。どこまでたどれるかは分かりませんが、やってみる価値はあるでしょう」
「だな」
「うまくいけば、野党執行部の首根っ子を押さえられるかもしれません」
「ん? つまり?」
「汚い仕事を頼める仲というものは、もっと汚い関係性で癒着しているはずですから」
蓼丸の笑みが、より深くなる。整った顔立ちなだけに、冷たさが際立つ。
「悪い顔だな」
普段の、人当たりのよい秘書ぶりからは考えられないほど。
「いまさらやろ」
「……せやな」
一瞬だけ、友人同士に戻る。
少年期から青年期の間の、まだ自分たちが何者かも知らなかったあのころのまま。
しかし束の間の追憶は、ノックの音で掻き消えた。扉の向こうのスタッフが、次の来客を通していいかと訊ねているのだ。
「まだまだ続くか」
「はい。本日はあと5組残っております」
蓼丸は、もう悪い顔も友人の顔もしていない。人当たりがよく、行き届いて有能な秘書の顔に戻っている。
ならば其扇も、仕事に戻らなくては。落とし穴があろうと罠があろうと、一度決めた道を行き、この国のために働かなくては。小さなことから、ひとつずつ。一歩ずつ。
「大変お待たせいたしました。私が中道民自党衆議院議員、其扇晟尋です。本日は秘書の蓼丸一貴も同席させていただきます」
……
………
…………
……
………
…………
……
………
…………
了